近頃、というかもうだいぶ前からのことではありますが、
「実話に基づく」という言葉の添えられた映画がとても多いような気がしますですね。
いわゆる劇的な人生を送る人がある一方で、比較してとるに足らない人生を送る人もあるのでしょうけれど、
その「とるに足らなさ」をどう考えるかという考え方が変わってきたのかもしれませんですね。
実話ベースの映画で描かれるのは、冒険アクション的に世界を股に掛けた感がなくとも、
必ずしも大発明やら大発見やらをしていなくとも、見つめる人生に共感できるといいますか、
身の丈にあう形で「ああ、自分もこれでいいのだ」と思えたり、
「このくらいの背伸びならも少し頑張ってみるか」と背中を押される気分になったり。
自身とかけ離れていないからこその受け止め方ができるということかもしれません。
ところで、ここでのお話は実は映画のことではありませんで、小説なのですな。
オーストリアの作家、ローベルト・ゼーターラーの『ある一生』を読んだのでありました。
原題は「Ein ganzes Leben」でして、「ganz」はドイツ語表現の中で実によく使われる言葉なのですが、
辞書的には「全部の」「全体の」といった意味合いですが、うまく使うにはニュアンスをつかむ必要があるような。
ですので、「ある一生」という邦題は「ganz」の意味をも込めたものとして付けられているとは思うものの、
原題を顧みることなく「ある一生」とだけ見てしまうと、あまりにシンプルなタイトルとしか思えないかも。
的外れな意訳的理解ではありますけれど、含みとしては「ある全き生涯」てなふうにも捉えてみたいところでして。
主人公アンドレアス・エッガーの、自らに起こることをひたすらに引き受けるようすは
キリスト教的な意味合いとして全き人であるや思えたものですから。
アルプス(といってもオーストリア・アルプスですが)の山裾の村にひとりの男の子が連れてこられます。
両親を亡くして、縁者に預けられることになった…となりますと、あたかも「アルプスの少女ハイジ」ならぬ
「アルプスの少年アンディ」てな雰囲気でもありますが、養父とアンドレアスとの関係は
アルムおんじとハイジの関係とは似ても似つかぬものなのですな。
事あるごとに鞭打ちの罰が与えらえ、その結果、片足に不具を抱えることになってしまいます。
それでも黙々と日々を凌ぐ中で、片足以外は頑健な体躯をもって成長し、ある時養父と訣別することに。
折しも山にロープウェイが架けられることになり、この工事に作業員として関わることで生計を立てておりましたが、
村人たちが集まる居酒屋で給仕をしていたマリーとの間に穏やかな愛を育くんでいくのですなあ。
二人だけの山小屋住いでささやな幸せ…も束の間、山小屋を襲った雪崩がマリーもろとも飲み込んでしまい…。
なんと不運な人生であるかと思うところながら、アンドレアスはみな我が身に引き受けているようす。
敢えてキリスト教っぽさが語られることはありませんけれど、それはすでにして根付いていることなのかもです。
とまれ、こうしたひとりの山に暮らす男の人生が淡々と綴られるのですけれど、
これに引き付けられるというのは、ああ、文学の力であるなあと思うところなのでありますよ。
悲運の人であるとはいえましょうけれど、ことさらに悲惨さが強調されるわけでもなく、
毎日暑い暑い中で読み進めながら、どこかしらアルプスの清涼な風が吹き抜ける気がしたような。
とてもいい読書体験であったと思ったものなのでありました。