8月半ばに秋雨前線ですか…。

じょぼじょぼじょぼじょぼと、よく降る雨でありますなあ。

 

この時期にと目論んでいた企業ミュージアムのひとつは折からの感染拡大傾向を受けて

新規予約が中止になってしまったこともあり、元より出かける先とてありませんけれど、

こうも雨が降っておりますと、ステイホーム度合いに拍車がかかろうてなものでありまして。

 

で、室内目を向ければ「そうであった…」と。

新聞を読んで「!」とか「?」と思った記事がありますと脇へ取り除けておいたりするのですが、

それが結局のところほったらかしになってしまったり。

日付を見ると、7月27日(火)、8月11日(水)…とは、まだまだましな方でしょうか。

 

ところで取り除けておいた7/27の新聞記事の中に政治学者・中島岳志の寄稿がありまして、

社会学者・山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』という一冊からの引用がなされてあったのですなあ。

山岸によると「信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、…相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えること」であり、「安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じること」である。

これを読んだときわりと素直に、信頼<安心という構図が思い浮かんだのですけれど、

この先を読んで「???」となったのでありますよ。社会的不確実性とやらの「ある」信頼社会よりも、

それが存在していない安心社会の方がいいのではとなかろうかと受け止めてわけですが、

ここでのポイントは安心社会に社会的不確実性が「無い」とは言っていない点でしょうか。

ただ、人々が「無い」と感じているだけということで。

 

そんな安心社会の「安心」は、何らかの制御によって作り出されるものであって、

端的に言えば政府が国民へのコントロールを強化することによって生み出されるものだというのですね。

だから、信頼>安心と考えなくては油断ならない事態となりますよということでもあろうかと。

 

ですが、ただただ世間知らず的な甘い考え、単純に理想主義的に過ぎるのかもしれませんですが、

そもそもこの二項対立の前提には、社会的不確実性があるか無いかではなくして、

あるか、はたまた無いと感じるかとなっておりまして、社会的不確実性が無いことが

なぜに想定外とされているのであろうかと思ったりするのですよね。

 

不確実なことなんだからあり得るとは言えても無いとは言い切れない…とは言えるかもしれませんが、

乱暴ながらこの社会的不確実性を事の善悪といったことに置き換えてみますと、

悪いことは決してなくならないと言いきってしまっているような気がするわけなのですね。

それって、仕方がないことなのでありましょうか…。

 

ただ、国民が唯々諾々と政府のやることに黙って従っているようなありように対する警鐘とは言えるのでしょう。

だからといって、安心社会から信頼社会への転換が良いのだとは俄かに得心しがたいところでもありまして、

国民に対して意識の目覚めを促すのであれば、むしろ8/11の記事に見かけた憲法学者・芦部信喜の言葉の方が

よほどすっと入ってくる気がしたものです。

 

法学部の学生には避けては通れないであろう「芦部憲法」の著者となる遥か以前の日本国憲法発布直後、

まだ芦部が学生時代に書いた「新憲法とわれらの覚悟」と題した論考が発見されたという記事でしたが、

とやかく言う事無しに、芦部の言葉に耳を傾けてみたいところです。

若し封建時代から継承された他力本願的な気持ちを清算出来ないならば(略)明治憲法に比し飛躍的な近代的性格を持つ新憲法を時の経過と共に空文に葬り去つてしまふ
何らの節操もない為政者を選出して異とも感じない考へ方が依然として改められず相変ずの被治者根性に支配されて主体の意識を取り戻さぬ限り、新憲法の下に再び過去の変改が繰返される

国という枠組みで考えた場合、その主権は国民にあることを忘れてはいけんのですよね。

奇しくも太平洋戦争に降伏した日に、そんなことを考えたものなのでありました。