先に映画「エンテベ空港の7日間」のことに触れました折、
ハイジャック犯の4人のうち2人はパレスチナ解放人民戦線で…とはいいましたですが、
残りの2人は西ドイツ(当時)のテロリスト・グループに属していた…つまり、ドイツ人なわけです。
同じ事件に関わって、人質解放の条件は政治犯の釈放である点では共通目的があるところながら、
感情の面ではパレスチナの人たちとは自ずと違いがあるのですな。そのあたり、人質の扱いにも
違いが出てくるようすが見て取れるところです。
が、こうした点をここでまた繰り返すつもりではありませんで、
映画の中で見かけたシーンから別の思い巡らしに少々触れてみようかと思うわけでして。
ドイツ人テロリストのうちのひとり、ブリギッテ(ロザムンド・パイク)は至って冷静沈着に、
自ら革命家であるとの思いから冷徹に、淡々と作戦を実行しているように見えていましたが、
(もうひとりのボーゼ(ダニエル・ブリュール)が普通の人っぽいのでなおのことそんなふうに)
交渉期限が迫る中、なかなか思うような展開を見せないところから、
ふと「ここ(エンテベ)に来ていなければ…」てな思いが兆したのでしょうかね。
人質を押し込めたエンテベ空港の旧ターミナルから、
何ごとのないかのようにオペレーションの続く新ターミナルへとふらりとやってきたブリギッテは
やおら公衆電話の受話器を取り、番号を押して、話し始めるのですな。
どうやら相手はドイツにいる恋人でもあるようです。
そんな電話の最中に、通りすがりの空港利用客が「その電話、壊れてますよ」と。
つまりは、てっきり相手に通じた電話だと思っていたものはブリギッテのひとり語りだったと
このときになって映画を見る側は知ることになるという。
回線が通じてようが、通じていまいが、語りたい相手がいて、語りたいことがある。
電話という機械を通じてならば、もしかすると(そこに理屈はないのですが)相手に伝わるかもしれない。
そんな思いに駆られる、その心理状況をこそ見る側は受け止めるべきシーンなのでありましょう。
と、これを見て「風の電話」を思い出したものでありますよ。
岩手県の三陸海岸沿いの高台に「風の電話」と呼ばれる電話ボックスが置かれているのですが、
どこにも回線は繋がっていない。いわば、スタンドアロンの電話なのですね。
設置されている施設のHPには、こんな紹介がありました。
「風の電話」はどこにも電話線はつながっていません、つながっていないからこそ想いはつながるのかも知れない。これが心の想像力であり、人の持つ力なのかも知れません。これが希望となり、生きる力になる。それを支えているのが心で話す「風の電話」なのです。
三陸海岸には2011年の大地震の折、大きな津波が押し寄せて、
多くの人が一瞬にして犠牲になりました。ついさっきまで話のできていた人がもういない。
そんな状況に置かれた人が本当にたくさんいたのですよね。
この海岸を見下ろす高台にある電話ならば、海のどこかにいるかもしれない相手と通じあえるかもしれない。
そんな思いが生ずるのかもしれません。こうしたことをモチーフに映画「風の電話」は作られていると。
ただそうとは思ってもいざ映画を見た時、繋がっていない電話に必死に語りかける主人公の思いに、
個人的にはどうも入り込みにくさのようなものを感じてしまっていたのでありますよ。
理解するけれども、ついていきにくいというか…。
それが(と持ち出すには適当な映画であるかは別として)
「エンテベ空港の7日間」でのブリギッテの電話を見た時に「そうだったんだねえ」と思ったのですよね。
要するに、この電話、仏壇のようなものなのであるなあと。
科学的なことを言ってもなんですが、亡くなった方との交信はできるはずもないことでしょう。
そうではあっても、そうとは分かっていても、仏壇の前で亡くなった近親者に語りかける例はたくさんある。
それは仏壇という装置を通じることによって、なんとなく相手に伝わるような気がするからでもありましょう。
風の電話という装置は仏壇のそれに類似しているのだと、ようやく思い至ることができたような次第です。
また、内に秘めたというか、内に籠った思いというか、それを吐き出す、つまり言葉に出したいときに、
やおら海に向かって叫ぶんでもなんでもいいところながら、こそっとしかも特定の相手だけに伝えたいような場合、
電話(仏壇も同様ですが)というものを介することは、確かに言葉を出しやすくするのかもしれません。
現実に何かしらそうした思いを持たない(持たずにすんでいる)者には、
相手が出るわけでもない電話に語りかけるのは…??みたいにも考えてしまうところながら、
これは考えることよりも電話に託したい思いに寄り添えるかどうかなのでしょうなあ。
遅まきながら、感覚的に少し近づけたような気がしたものなのでありました。