どうやら淡々と、かどうかは分かりませんけれど、オリンピックは予定をこなしていっているのでしょうか。

 

全く見てないものですからよくは分かりませんが、

そもそも掲げた「復興五輪」なんつう言葉がなんとも虚しく響くようになってはおりませんかね。

コロナ下でやってることに精一杯、他のことにはかまってられないてなところかも。

とまあ、かような折も折、映画「Fukushima 50」を見たのでありますよ。

 

 

毀誉褒貶といいますか、まああまり褒める方は聴こえませんが、

「映画だから語れる真実」などと銘打ってしまったのも敗因とは言えましょうかね。

震災後、というより事故後10年、この(映画の)ような形で振り返るには早すぎたような気もします。

 

一方で、ストーリーから何を見るかという点で、「想定外の自然には勝てない」、

そんな中で「東電は頑張った」みたいな見方もなされるかもしれませんけれど、

そしてかような描きようには異論を唱えるむきも(あるいは単純にそうだったんだと思ってしまう方も)

おいでとは思いますが、とにもかくにも「やっぱり原子力は…」ということをひたすらに思うことになるわけで。

 

映画の中に再現されたF1にしても、所内のあちこちに安全確認を促す貼り紙のようなものがありましたが、

ことほどかほどに注意を促しても、誠に残念ながら人間はポカをやることもあるわけで。

で、ポカをやるから何もできないと言っては、さまざまな品物の製造工場などでも多かれ少なかれ、

人間のポカが大事に至るようなことはありますから、極端には何にも作れないところになってしまうわけながら、

その大事に至った場合の影響の大きさは原発ほどに甚大なものはそう無いのではなかろうかと。

 

人間はポカをやるから、機械でしっかり管理してという面もありますけれど、

結局電気が失われると機械は沈黙してしまう。自らリカバーしようということはもはや無いのですよね。

そんなこんなを考えたときに(映画で触れていた東日本壊滅といった事態にまで行かなかったことで

ああ、よかった」とはならないわけで)、再び原発頼みを当然のように考えてしまうのはどうしたことか。

これが理解できんなあ…と思うところなのでありますよ。

 

一説に、先進国たるもの核兵器の保持は当然といった考えもあることから、

表立って核兵器を持つことのできない(とされている)日本では原発の保持は

いざというとき(?)の安全保障上の問題なのだと捉える向きもあるようで。

 

でも、これって被爆国として原子力兵器がもたらす凄惨な結果を知っているにもかかわらず、

そうした兵器代替物を保持することは「仕方がない」とかいうことで済んでしまう話なのでありましょうか。

 

前々から触れておりますけれど、仮に安全に稼働していたとしても処分に困る廃棄物が出ることもありますね。

とても見過ごしにはできないことばかりあることからしても、「Fukushima50」の読み解きは

至ってピンポイントであるような気がしたものなのでありました。