自分の意見は意見として、一旦決まったことは、これに従って粛々と実施していくのがわが国の美風である。
太平洋戦争末期、最後の幕引きを行った鈴木貫太郎の前に首相を務めた小磯國昭は
戦後の東京裁判において、こんなふうに検察官に答えたのだそうな。
東京裁判に臨んだ戦犯たちはこぞって「個人的には反対だったが、とても反対できる空気ではなかった」と
言っていたそうなのですけれど、この言葉と先の小磯の言葉と、どちらも今現在の政府閣僚の口から出たと、
もしも聞かされても全く違和感が無いといいましょうか。
自らの責任において、誰も英断を下すことができない。それが美風であるとは…。
この引用はちょっと前の新聞で見かけた思想家・内田樹の寄稿にあったもので、
今回の東京五輪に関わる言説の中に出てきたものはあるも、例えそうとは知らずに目にしたとしても
当然のように現下の状況と結びつけて考えたことでありましょうね。
ただ、これは何も為政者の側ばかりに切り込んで済む話ではないでしょうなあ
いわゆるその他大勢、国民の側をも冷静に見つめてみれば、「結果的にそれをよしとする」ものと、
見透かされているといいますか。
なんのかんのと言われても、五輪が始まってしまえば、関心は競技に向き、
試合、勝負が巻き起こす熱狂が全てを包み込んで、結果オーライになる、
そんなふうに日本国民なるものは見透かされているわけですね。
このことが為政者の側にとって都度都度確認できたりするので、
時折は心配することがあっても「このまま進めばよし」と意を決することができるでしょう。
端的な例として聖火リレーに人だかりができた…なんつうことが報じられるにつけ、
「ほら、みんな楽しみにしてるじゃない」と確認できるわけですな。
そんな?プロセスを経て、今日がいよいよ開会式ですか。
夜の8時に始まるということは、アメリカ東部時間ではちょうど朝のニュースで見られる時間ですな。
ま、そうしたアメリカのメディアとの関わりはあちこちで触れられていますので、
今さらそのこと自体をここでとやかく言うつもりもありませんですが、
いったい全体、誰の、なんのために「安心・安全」を連呼してまでやらなければならないイベントなのか、
いつしかオリンピックが「儲かる」イベント化してきたことに乗じた開催のありようからして、
そもそも(日本のみならず)考え直した方がいいのではありませんですかね…。
これまでに聞こえてきた世の中でも言われようとして、
選手たちは悪くないし、頑張ってもらいたいてなことが大会開催のひとつの後押しにもなったかと思いますが、
不適切な例えと承知の上で敢えて言えば、これって一人ひとりの兵隊さんは悪くないし、がんばってきてほしいと、
戦争に送り出す感覚と非常に近い気がしないでもないところでして。あたかも戦争も悪くないというふうに。
国民という塊で見ると、そういうことになってしまうのでありましょうかね、これはこの後もでありましょうか…。