どうにも「言葉」にこだわりがありまして、どうしてそんなふうになったのか、

理由は自分でもよく分からないのですけれど、今でも「ら抜き言葉」にぴくん!と反応したり。

昨今、多用の一途をたどって一般にはいささかも顧みられることのない「させていただきます」も、

気になって気になって。

 

「本日はご乗車いただき、誠にありがとうございます」てなアナウンスを日々耳にするわけですが、

そのたびに「ご乗車くださいまして…」でないのと、考えを巡らしてしまったりするわけです。

ではありますが、このほど少しばかり考えを改める契機が生じたのですなあ。

『日本人と漢字』という本を読んだことによるところでありまして。

 

個々人やいくつもの集団によって、さまざまな力学も加わりながら社会全体も変化していきます。そうして自身の環境が気付かないうちに少しずつ移ろっていくこともあるでしょうし、一夜にして激動することもあるでしょう。そうした状況に合わせて、人々が使うことばに変化が起きるのは自然のなりゆきです。それを表記し、ときに構成する漢字もまた、変化を免れたことなど当然ありませんでした。「乱れ」を評される現象から、未来の新しい表現が生まれてくることは、これまでにだっていくらでも起きていたのですから、この先もきっとあることでしょう。

やおら長い引用になりますが、今さらながらに「そうだよなあ…」とは思わざるを得ず。

本来の意味とか、語源であるとか、そういうところにこだわりを見せたとして、

今現在、正用とされていることも長い歴史の中では、誤用転じてということもあれば

むしろ積極的に変えてきたものもあるわけなのですよね。

 

本書は漢字のことを扱っていますので、紹介されていた漢字の例をひとつだけ挙げてみます。

例えば「幸」という漢字。「幸福」の「幸」であって、訓読みでも「幸せ」に当てられている字ですな。

そのことに馴染み切っていますので、「幸」の字からは自然と良い意味合いを感じ取ることになろうかと。

 

ですが、この「幸」という字のそもそもは犯罪者を拘束するための手かせを象ったものなのであると。

自由を奪われて、何ゆえ「幸」であるかとなれば、現代とは全く異なる社会環境なればこそでしょうか。

 

昔々の犯罪人に対しては何かと死刑が言い渡されていたようなことがあったわけですけれど、

こうした社会にあって、死罪を免れ手かせで済んだとなれば、なんと「幸」であるかというのですねえ。

「漢字の意味も字源の解釈もまた変化を続けている」とは、正しくではないでしょうか。

 

冒頭に触れたようなこだわりを、もしも漢字に持ち込んで、遥かに歴史を遡って本来は…などと、

考えること自体、無為な気がしてこようというものです(もちろん、研究者が研究するのは別として)。

 

ただ、上に触れた「幸」の字のように、漢字の持つ意味合いにこだわりを見せるありようは

日本での特徴的な受け止め方のようなのですね。漢字は表意文字とも言われて、

文字が意味を体現しているところなわけですが、その生まれ故郷の中国では

どちらかというと意味は脇へ措いても音の方への関心が高いようで。

 

ですので、難しい字(画数の多い文字とか)を、同じ音の簡単な字に置き換えたりもする。

両者の文字が持つ意味がおよそ似通うものでなくても、結構お構いなしのようです。

そんなふうに、長い歴史の中では中国でも文字そのものも、その用法も、結果意味合いも

あれこれ変化が起きているのですから、それが日本においても起こるのは当然でもありましょうか。

 

とはいえ、意味にあまりこだわらない中国では、変化に対していわば「上書き保存」が行われると。

つまり、古いものはあっさり捨て去ってしまうのですな。

 

一方、日本ではいわゆる「名前を付けて保存」が行われる。

漢字の音読みにいくつかの読み方が受け継がれておりますね。

漢和辞典などを見れば、呉音、漢音、唐音などと書いてあったりするわけで。

 

中国の時代時代に文字を読む音が変わったとして日本に伝わると上書きするのでなく、

読み方のバリエーションとして受け止めるような。これは、日本での漢字受容にあたって

そも訓読みなるものを編み出した実績?があり、漢字の読みにいくつかの種類があっても

驚くには当たらないところがあったからかもしれませんですね。

 

とまあ、そんな話に触れて言葉の捉え方にいささかの鷹揚さをもって臨むつもりになったわけで、

昨今使われる言葉に対してもそれなりの臨み方でいこうかと思うところながら、

こと「ら抜き言葉」に関してはやっぱり、あの舌っ足らず感にぴくんとしてしまうのではありましょう(笑)。