外国人にはいまだ奇妙に映る日本人の所作「おじぎ」は、いつの時代のどんな身体動作と背景から生まれたものなのか。立礼と座礼の成り立ちと変化、神道や密教の作法や武家礼法との関係、畳・着物による近世の「おじぎ」変革、近代からの国民礼法など、日本人の日本人たるゆえんの文化として解き明かす。

とまあ、Amazonにはかように内容が紹介されている『「おじぎ」の日本文化』なる一冊を、

少しずつ読んでいたのですなあ。

 

 

そんな折も折、先日出かけた読響の演奏会では、

指揮者のセバスティアン・ヴァイグレが一曲終わるごとに深々と頭を下げる…となれば、

何もおじぎが「外国人にはいまだ奇妙に映る」ということもないのではとも。

 

さりながら、問題(?)は日本人によるその頻度といいますか、

欧米ならばもそっと違う形であいさつを交わしたりするかもしれないところを、

敢えていくならことごとく「おじぎ」で済ませている日本人は「どうなってんの?」と感じるのかも。

 

時には握手であったり、軽いハグであったり、バリエーションがあるところへもってきて、

日本人はひたすらおじぎではないかと言われれば、まあ、そうかもと。

 

ではありますが、実はその「おじぎ」そのものにバリエーションがあるのですよねえ。

頭を下げるというか、腰を折るというか、深々したものからぺこり程度のものまで。

そこでは、相手が目上である目下であるか、きやすい存在かよく知らない人であるか、

はたまたその時に気分などもおじぎには乗っかって千差万別であろうと。

 

ですが、その違いがぱっと見て分かるのかと言われれば、

日本人であっても分かるとはいいがたい。それは分かるというよりも、

感じ取ることなのかもしれませんですね。

 

良し悪しはともかくとも、日本には推し量る文化がありますですね。

言葉にしなくても分かり合うといいますか。おそらく欧米の人から見れば、

日本の夫婦が互いにちいとも「愛してる」を言わないこともまた奇異なことかも。

 

敢えて確かめ合わずとも、分かっているといいますか。

もっとも、分かっているつもりが大きな勘違いであったりすることもありましょうし、

それ以上に実のところは「亭主元気で留守がいい」的な関係に立ち至っているケースも

あるかもしれませんですが。

 

そういえば、先ごろ見かけたサラリーマン川柳ではコロナのご時勢を反映して、

「会社へは 上司は来るな 妻は行け」なんつうのもありましたですねえ。

 

一方で、昨今の日本のドラマや映画では感極まる状況のときに、

ひしと抱き合うようなシーンが出てくるのをかなり見かけるようになりましたですが、

個人的には「現実に日本人がそんなに抱き合うものであるかな…」と思うも、

もしかしたら世の中は知らぬ間に?移り変わっているのかもしれません。

 

そうなると、おじぎのバリエーションなどと言っても、

相手方にこちらの意図(どういうことで、今してみせたおじぎの形になったのか)を

ちいとも分かってもらえないようにもなってくるのでありましょうか…。

 

と、本書の内容とはあまり関わりない話で推移してしまいましたですが、

先のような内容紹介を見る限り、面白そうでもあるかなと手にとったところ、

実は学術書、とまではいわずとも文庫本のわりにはおじぎの掘り下げように

いささか付いていきにくく…。

 

「万葉集」やら「源氏物語」やらに「おじぎ」が登場する場面があるかどうかといったことや

おじぎの源流を神仏への拝礼に求めて、これの細かな説明がかなり長く続くのには

方向性に適った関心の持ち主でなければだれてしまいかねないような。

(恥ずかしながら、個人的にはまさにそれでしたが…)

 

ただ、拝礼の形を9種類に分けて記述している古典籍があったりするというのは、

それことが先につらつら申し述べたおじぎのバリエーションと一致するものではないにせよ、

昔からたくさんの形があったのであるなとは窺い知れるところでありましょう。

 

形がたくさんあるということは、それを類型化して「これはこういうもの」、

「あれはこういう含み」といったふうに区分けて説明しにくいものと思いますが、

それでも「おじぎ(礼の仕方)、かくあるべし」と定めようとしたのが明治政府であったとか。

 

その後(今ではどうなのか分かりませんけれど)、昭和の子どもでも

学校の教室に先生が入ってくると、当番の児童が「きりつ!きょうつけ!れい!」などとやっていた。

これも明治に作られたありようが受け継がれていたのでありましょう。

 

ところで、明治といえば何かと欧米に倣う政策だったわけですが、

挨拶という場面において、握手やハグを奨励する方向にならなかったのは

何故なのでしょうなあ。ギリギリのところで日本人らしさを温存しようとしたのか、

はたまた単に握手が一般に広く馴染んでいかなかったのか。

 

されど、先に触れた映画やドラマの場面ではありませんが、

挨拶などもだんだんと変わっていくのかもしれませんねえ、もしかして…。