「あいつはいつも評論家だからなあ…」

こんな言葉を聞きますと、脇から見ていて好き勝手に口を出す人としてネガティブな印象がありますね。

もちろん「評論家」本来の意味合いとは異なる用語法ではあるものの、この比喩表現のイメージが強く、

いわゆる肩書が本当に評論家である人たちを斜に構える眺めてしまったもしてしまいますなあ。

 

文芸評論家、音楽評論家、美術評論家などなど、さまざまにある中で、

自らは作品を生み出さないのに好き勝手なことを言ってばかりで…と思ってしまうところではありますが、

全くもって今さらながらに第三者目線の大事さに思い至ることになりましたですよ。

映画「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」を見たものですから。

 

 

早世の小説家トマス・ウルフ(ジュード・ロウ)と、

彼を世に送り出した編集者マックス・パーキンズ(コリン・ファース)との関わりを描いた物語。

マックスはフィッツジェラルドやヘミングウェイの作品も手掛けた名編集者として知られているようで。

 

まだ無名時代のトマスの原稿が、あちらこちらの出版社でたらい回しされた結果でしょうか、

マックスの手元に届けられるのですな。たらい回しもむべなるかなと思われますのは、

その原稿枚数の膨大であること。忙しい編集者にはすでにして手を出しかねるというものであろうと。

 

作者としてはこれだけ書き込んで作品が完成したという自負があるでしょうから、

そのできあがったままで世に送り出したいと思うところながら、

そこに編集者という第三者の目が入ることになるのですな。

 

編集者は決して評論家ではありませんけれど、

の第三者目線の持ちようが冒頭の想像を働かせたところでありまして、

山と積まれた原稿を丹念に読み込んで、作者の思いがオーバーフローしているであろう部分を

ばしばし削除するよう求めていくわけですね。

 

ある意味、読者にとっての読みやすさを考えると同時に、

編集者としては「売れる本」を作りたいというところから出ているのでしょう。

そのバランスがどんなふうにとれているかはひとりひとりの編集者次第でしょうけれど。

 

作者としては「これで!」と思っている文章を摘んでいくのは、

文字通りに身を切られる思いでありましょう。

されど、そのままでは原稿は相変わらず出版社の間でたらい回しとなり、日の目を見ないとなれば、

編集者の言に耳を貸さざるを得ないところもあったろうと思うところです。

 

実際、フィッツジェラルドやヘミングウェイとも出版上の付き合いも超えて懇意にしているパーキンズですし、

ただただ「切って短くしろ」というものではなく、摘んでいく言葉に対する指摘はそれはそれで当を得たものと、

見ている側でも思えたものですから、トマスもマックスの言うことを受け入れていくのですよね。

 

結果、晴れてウルフの本が店頭に並び日が訪れ、一躍ベストセラー作家となる…わけですが、

次回作が出来たとマックスのもとに持ち込まれた原稿は、前作にも比して膨大なものであったという。

これについても、コツコツと「本」にしたてるための共同作業をマックスとトマスはこなしていくところながら、

トマスはやはり「身を切られる思い」が募るばかり。一方のマックスの方でも、

作者の産物を改変しているだけでは…という、いささかの惑いもあったりも。難しいところですなあ。

 

トマスはこの二作目にマックスへの献辞を添えることを考えますけれど、

マックスはこれを固辞、編集者は黒子だからとの思いからです(結果的には献辞は受け入れられますが)。

結局のところ、共同作業の結果として世に出された作品の、良いも悪いも引き受けるのが作者になりますし、

その点は実に微妙な立ち位置だなと思うところです。

 

ですが、先にも触れた作家へのあれこれの示唆、指摘が「当を得たもの」と受け止められたことからも、

編集者の仕事というのは「確かにある」ということに改めて思いを致したものなのでありました。