Eテレ「にっぽんの芸能」で、2週にわたり「鬼」にまつわる話を取り上げておりましたですね。
古来日本では、人にとって姿の知れない災厄に鬼の姿を与えて畏怖するということがありましたが、
先日出かけた国文学研究資料館で「百鬼夜行図」の一部を見ることができましたけれど、
鬼の図像は実にさまざま。
その場ではもっぱら、楽器に宿るものが「鬼」と化した姿が見られ、
琵琶やら琴やらの変形ががちゃがちゃと都の大路を行進していくさまは今では滑稽にも見えるところながら、
森羅万象、万物に霊性を感じるところからすれば、分からないことでもありませんですね。
一方、「にっぽんの芸能」で取り上げられていた舞踊の「安達ケ原」は
昔から福島県に伝わる鬼婆伝説を下敷きにしているわけですけれど、
こうした伝説、言い伝えは警告の形を変えたものでしょうなあ。
だいたい安達ケ原というところがどんな場所なのか、詳らかではないものの、
景観にしても何にしてもいかにも「何か出そう…」な雰囲気を醸していたのかもしれません。
そうした場所だからこそ、もしかすると獣に襲われたりする可能性があったり、
はたまた入り込むと迷子になったりするようなことがあり、安易に立ち入ることを戒めるために
鬼婆伝説という言い伝えができあがったのかもと思ったりするところです。
昔話にはそうした教え諭す含みがあることは言わずもがな。
と、そんな思い巡らしをしている一方で、折しも読んでいた本が朝井まかて『雲上雲下』であったのは
たまたまにもせよ、タイムリーであったような気もするのでありますよ。
新聞書評でちらりと見かけたものであったか、書名だけを覚えていて図書館で借りたですが、
てっきり昔話ベースの二次創作集かと思い込んで読み始め、いかにも昔話らしいキャラクターが登場し、
古風な語り口で展開する中に浦島太郎が訪ねた後の竜宮城などが出てくるに及んで「やっぱり」と思い、
にんまりしながら読んでいたものです。
ところが、真ん中の章の全てを構成しているのが「こりゃあ、龍の子太郎だぁ!」と思い出すに至り、
どうも二次創作の連作短編とはようすが違うと気付き始め、最終章には驚愕の展開が待っておりましたよ。
もっとも驚愕といっても、ミステリーでいうところのどんでん返しといったものではなくして、
全体として「こういう話であったのかあ!」と、ひたすら感心、感嘆したという次第でありまして。
上の表紙画像には帯封に「物語が世界から消える?」とあり、これがヒントになってしまいますが、
図書館から借りだした段階ではこの惹句を知る由も無かったものですから、想定外度合いが弥増したわけで。
では、いったいどんな話であったのかはここで詳しく触れるよりも、他の数々の紹介文に委ねるとまして、
取りあえずは昔話、言い伝え、口頭伝承などに思いを馳せたことの方に触れておこうかと。
帯封の惹句「物語は世界から消える?」というのも、もっぱら口承のことでしょうし。
先に触れましたように口承による伝承には警告という要素があるとして、
そのことが語られる時には「今そこにある危機」を伝えているのですよね。
その意味ではリアルタイムなお話であって、決して「昔話」ではない。
これを「昔話」というカテゴリーに押し込めたのは文字化されたことによるものでしょうか。
口伝の形ではいつしかそれが途絶えてしまうかもしれない。
例えばグリムの民話採集も同様でしょうけれど、そうした考えから口伝によるものを文字化し、
記録に留めるということが行われますな。
ですが、口伝の場合には、話の大筋はあるものの、何をどう伝えるかは語り手の裁量に任されています。
危機感が強ければそれに該当する部分を強調し、尾ひれを付けて話すこともありましょうし、
そうでもない場合にはおだやかに語ることもありましょう。その語り口そのものが、
その時代を反映しているからこそ、リアルタイムなお話になるわけです。
さりながら文字化されたものとなりますと、それは誰がいつ読んでも同じ内容になるわけで、
いつしか「昔々あるところに…」が馴染む形態の、いわゆる「昔話」になっていったのでしょう。
今でもそこから何らかの教訓を得ることはできるにせよ、決してリアルタイムな物語ではなくなっているわけです。
今でも得られる教訓があるということは、必ずしも昔懐かしいお話、
日本の原風景であるような野山を舞台にした素朴なお話というばかりではないものが含まれている。
とはいっても、リアルタイムの話でない以上、「むかしのことね」で片付けられてしまう、
つまりは「昔話」化が進むということなのでしょうなあ。
ですので、語り手が自分の言葉で語るのが大きなポイントなわけですけれど、
そういう形がほぼほぼなくなりつつあることを、「物語が世界から消える?」と言っているのかもですね。
口伝という形はともすると語られる言葉に文字が無い、あるいは語り手が文字を知らないことで存在し、
今はそういうことも(全くとはいえませんが)無くなってきているなれば、消滅していく運命なのかもですが、
そんなときにこれを残すには文字化すればよい、録音・録画しておけばよいとされてきたのでしょうけれど、
もしかすると口伝という形そのものの残すことも必要なのではなかろうかと。
あんまり学術的なところからの発想でなくして、身近なところでの語り手の存在。
子どもを寝かすときに、本を読んで聞かせるということはありましょうけれど、
そうではなくして語り手が自分の言葉でお話などを語り聞かせる、
そんなことが実はとっても大事なことなのかもしれませんですね。