「人生100年」などと言われるようになって、確かに100歳を超える長寿の方々もいるわけですが、
まだまだ一般的な認識としてはそこまで追いついておりませんな。掛け声ばかりが先にあり、
早い話が年金が回らないので、できるだけ長く働いてくれんと困る…というのが本音でもありましょうかね。
ところで、100年を生きると考えた場合に、100年=1世紀となりはするものの、
いわゆる世紀の初めから終わりまでのぴったり100年というわけにはなかなかいきませんなあ。
だいたいは世紀を跨ぐ形になろうかと。
ですが、1924年生まれで1999年に75歳で亡くなった方の場合には、
ほぼほぼ20世紀を生きた人と言えるのではありますまいか。
歴史は古い時代になるにつけ、ざっくり語られることになり、〇〇世紀はだいたいこんな時代だったとか、
△△世紀の後半にはこんなことが起こったとか、そういう括りの語られ方をしますですね。
そうしたざっくりした括りの中を生きたひとりひとりの人生は、そんな歴史的叙述には埋没してしまうところながら、
それでも時代感というものは感じられ、その人の人生にまつわる雰囲気といいますか、
そうしたものが感じられるのではなかろうかと思うところです。
先に例えに出した1924年から1999年までの人生を送った人、
その人を中心した映画のタイトルが「20センチュリー・ウーマン」とは、
見てみるまでは「どういうタイトル??」と思ったものの、
まさに20世紀を生きた女性を中心としたお話でありましたよ。
1979年、サンタバーバラ。シングルマザーのドロシア(アネット・ベニング)は、思春期を迎える息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)の教育に悩んでいた。 ある日ドロシアはルームシェアで暮らすパンクな写真家アビー(グレタ・ガーウィグ)と、近所に住む幼馴染で友達以上恋人未満の関係、ジュリー(エル・ファニング)に 「複雑な時代を生きるのは難しい。彼を助けてやって」とお願いする。15歳のジェイミーと、彼女たちの特別な夏がはじまった。
Amazonのストーリー紹介ではこんなうふうでして、
「彼女たちとの特別な夏」をたどるのがメインの筋立てではありましょうけれど、
時に過去を振り返りつつ掘り起こされるそれぞれの人物はよく造形されているように思うところです。
取り分けとタイトルロールと思しき20世紀を生きた女性ドロシアのたどった人生は
息子のジェイミーから「大恐慌世代」と揶揄されるように、世界恐慌、第二次大戦、赤狩り、ベトナム戦争と
アメリカがたどった歴史の中にあるのですよね。
ドロシア個人が全ての事柄に大きく左右されたわけではないとしても、
そういう状況にある中でさまざまに移り行く世相を見、時には変化に対応し(それどころか先んじてゐたり)
時には古い価値観に囚われたりもしつつ、その時を生きていったわけです。
こうした、個人史をそれを取り巻く大きな歴史の中に意識することがあまりなかったのですけれど、
(もっとも話として歴史に翻弄される主人公的な映画であればまた別ですが)
ことさら個人と歴史との対比を明確にしているわけではないにもかかわらず、意識してしまいましたですよ。
アメリカでの「大恐慌世代だから…」との言われようは、さしづめ日本であれば「昭和ひと桁だから…」てなところかと。
100年ごとの世紀の区切り、これまた日本で言うならば元号の区切りなんかも含めて
歴史的な年代の区切りとは、個々に生きた時代の区切りはひとそれぞれですので一致はしませんけれど、
自分たちが生きた時代もやがては歴史の叙述の中で短く括られることになりましょう。
そのとき、果たして20世紀はどんな時代だったと振り返られることになるのでありましょうか。
そんなことを考えて来し方を思い返したりすることになったものでありました。
そうそう、映画そのものとしても「20センチュリー・ウーマン」、いい話でありましたですよ。