語り伝えるという形があることの大事さのようなことを考えておりましたときに、

ふと映画「ミナリ」を思い出しておりました。映画そのものというよりは、登場するおばあちゃんですけれど。

 

 

公開されてわりとすぐに見に行ったので、もうひと月あまり前も経ってしまってますが、

当初はどうも見た印象を記すことができずにいたのですなあ。

フライヤーにも「アカデミー賞最有力!」という言葉が躍っておりますように、

作品賞の受賞もないではなさそうな作品と、一様に評価の高さが語られていたところながら、

個人的にはどうもそこまでという感覚を得られずにいたものですから。

 

結果として先日発表されたところによれば「ミナリ」からの受賞は、

おばあちゃん役を演じたユン・ヨジョンが助演女優賞を得たにとどまったわけですが、

なんとも言えぬ存在感を放っていましたので、この受賞自体は驚くには当たりませんですね。

 

で、語り伝える云々…でこのおばあちゃんを思い出していたのは、

何も映画の中でこのおばあちゃんがそういう存在であったということではなくして、

昔は家族の中にといいますか、ひとつの家に住まう人数が多かった頃には

誰かしら語り手たるような人がいたのではなかったかなあ…ということなのでして。

 

しかも、大人数の生活は何かと人と人の軋轢が生じたりもしましょうけれど、

多くいることで関わりの薄い誰かにこぼして憂さを晴らしたり、

はたまた仲介に努める立場の人が出てきたりもしたのではなかろうかと思うところです。

「ミナリ」のおばあちゃんは構えることなく、そんな役回りを自然に引き受けもしていたのではないですかね。

 

核家族化と言われる現象が進んで家族が小さくなり、

それと同時に家のサイズも(日本では取り分け)小さくなりますと、仲立ちする人はおらず、

逃げ隠れする場所も限られ、角突き合わす状況が昂じて家族関係が破綻…なんつうこともありましょう。

 

昔を懐かしんで、大家族だったらそうしたことになりませんよ的に安直な物言いはしませんですが、

かつてあった機能が無くなってきたとは言えるのではないでしょうかね。

 

思うに、日本での核家族化は小さな単位の独立性がとても高い気がしますですね。

親兄弟はともかく、それより少し離れるいわゆる親戚との付き合いは

ひとそれぞれではあるものの、押しなべて薄くなっているのではなかろうかと。

 

アメリカは個人主義の国と言われて、確かに日常的に大家族でいるわけではありませんけれど、

クリスマスや感謝祭など折に触れて家族、というより一族郎党が集ってパーティーとなったりするような。

そこでは叔父、甥の関係とか、いとこ同士の関係とか、思いのほか関わりがあり、

疎遠とまでは言えないように感じられるやりとりが、よく映画の中でも見られますですね。

 

必ずしも普段一緒に住んでいなくとも、こうした部分が日常に抱える思い惑いを中和してくれたりするのかも。

そんなことを考えたりしたわけですが、結局のところ「ミナリ」のことはやっぱり触れておりませんですな(笑)。