東日本大震災とこれに伴う原発事故から10年が経ちましたけれど、
その後の福島とそこに暮らす人々の姿を追ったドキュメンタリー「春を告げる町」を見て、
いやあ、いろいろと考えてしまいましたなあ。復興とはなんであろうかなあ、ですとか…。
福島第一原発の南方、そう遠からぬところにある福島県双葉郡広野町は
事故の影響で全町避難となりますが、放射線の影響が原発の北側ほどではなかったせいか、
およそ半年後には他の地域よりも早く避難解除となっていたようです。
いっとき、いわき市の仮設住宅に避難していた人たちも自宅に戻って来る…。
ところが、お年寄りの中からは仮設暮らしを懐かしむ声が聞かれたりもするのですよね。
「仮設はお買い物に便利だった…」(自宅の近くにはスーパーは無く、バス停までも遠い)、
「集会施設ではお友達ができて、楽しかった…」(自宅は隣家までもかなり離れている)などなどと。
もちろん、心のうちは「自宅にまさるものはない、帰れてよかった」と思っていることに疑いはないものの、
現実的な利便性、取り分け自宅では叶わない便利なところに接してしまいますと、
それはそれで「よかったなあ」と思い出すのでありましょう。
今でもまだ仮設住まいを余儀なくされている方々がおいでの中で、
比較的というか、きわめて早期に自宅に帰れた方たちならではの述懐かもしれませんけれど、
実はお年寄りとこの住まいの利便性の点はどこにも誰にもある問題なのでしょうなあ。
若者が都会に出て行ってしまうという構図は相変わらずかもしれませんけれど、
生活する上で都会の高利便性を考えると、むしろ都会はお年寄りこそ住んでほしい場所なのかもと思ったり。
一方で、都会の交差点では四つ角の全てに店名の異なるコンビニがあったりする(とは極端ですが)など、
利便性という言い方では収まらない考えどころもあるわけで、この集中が都会でないところにも分散すれば、
ひいてはコンビニのみならず、そもそも都会にばかり人が集まる構図が緩和されれば、その分地域地域に
人もお店も残るのでは…ということに思い至りもするわけですか。
思いがけずもコロナ蔓延が「集中」への疑義を投げかけて、都会を厭う傾向がいくらか出てもいるようですが、
小さくともなんらかの動きに繋がっていきましょうかねえ。
ところで、同じ広野町にある県立高校の演劇部では被災を発信したいとの思いから劇作りに取り組んでいる。
事態に直面した自分たちならではの発信というところまではよいとして、「なにを」「どのように」伝えるか、
部員の思いはさまざまでなかなかにまとまらないのですな。
見ようによっては「ああ、高校の部活だなあ」と思える部員たちの葛藤なのですけれど、
この地域にあって震災を経験していないという部員がひとり交じっているのですね。
(震災後に引っ越してきたにせよ、経緯のほどは詳らかではありませんが)
ともすると、「あの」経験がある者と無い者との間でもいろいろありそうですが、
(見えている限りはそのようなこともなく)皆が第三者目線を素直に受け止めていたようでもあります。
ですが、表向きとは違って、心の中にあるものの隔たり感は双方が感じていたのではなかろうかと。
被災地の人々は(それぞれ悲しみのありような別々ながら)同じ体験をしている方々と捉えがちで、
それを知らない者を「どうせよそ者」のように思ってしまうところがあろうかと想像したりもしましたが、
そんなどちらであるかの区分けだけで推し量れるような思いではないですよね…。
ところは変わって、広野町より少し北側にある双葉町、
町の目抜き通りには「原子力明るい未来のエネルギー」と書かれた看板が設置されていた町でありますね。
今もなお町民のほとんどの帰宅が叶わない状況にありますが、全く立ち入りができないわけでもないようで、
父親と高校生の娘とで、今は住めない自宅に一時帰宅するというシーンがありました。
かつて震災後5年経った福島県・浪江町(双葉町の北に隣接している)を訪ねたことがありますけれど、
直前までの生活感を漂わせつつ、一瞬にして人が消えてしまったような、静まりかえった町がそこにあり、
およそそれと同じ雰囲気が双葉町の場面にも感じられましたですよ。
とまれかような町なかで、一時帰宅する家も当然にひっそりとしている。
家具類などはいっさいをそのままに避難したようすが偲ばれるとともに、
その後何度かの一時帰宅で荒れ果てないようにと片付けたのであろう結果のゴミの袋がたくさん置かれていたり。
放射線量を考えると仇や疎かに捨ててしまうこともできないのでしょうか。
娘の部屋には弾かれないままに置かれたピアノがあり、思い立ってこれを弾いてみるのですが、
ここで奏でたベートーヴェンの「テンペスト」(第3楽章)は沁みましたなあ。
どうこうと言葉を尽くして形容することが追い付かないくらいに沁みたものでありましたよ。
とまあ、映画の中の断片を思い返すだけにはなりましたですが、その中で改めて思い至ったことは、
土地や建物、人の往来や産業、こうした目に見えるものがいくら旧に復し、またそれ以上に変わったとしても
それが復興なのではないのだなあと。復興は人の心の中のことなのであろうかなと思ったものなのでありました。