このところ何度か引き合いに出したTV番組の「祈り~神と仏と~」

これの最終回を見たところで、また少々触れておきたいことがありまして。

 

仏教伝来、神仏習合、そして長い時をへて廃仏毀釈が起こるといった流れをたどってきましたですが、

その後の仏教を考えてみるところでもあったわけでして、仏教経典がただただ抹香臭いものというでなく、

そこに込められた教えの普遍性を伝える術として若いお坊さんの発信が紹介されておりましたよ。

 

例えば「少欲知足」という言葉、例えば「利他」という言葉、これらは仏典にある言葉であったのですなあ。

さも訳知りに?「足るを知る」とはよく使ってしまうところながら、よもや仏典出自とは思いませんで…。

 

とまれ、これらの言葉が新しくカタカナに置き換えられて(和製英語的と申しましょうか)

発信されているということなのですが、「少欲」は「コンパクト」、「知足」は「シンプル」と置き換えている。

これは突如として分かりやすくなる気がしますなあ。

 

そも漢字文化圏である日本にあって、漢字で書かれたものの意味が通りやすく、

もともとある言葉で表しにくい外来語などをカタカナで表記するという形が長い間に定着してきましたけれど、

今や漢字表記をカタカナ語で示した方がすっと入ってくるとは、なんとも不思議なことでもあるような。

 

ただ「生活様式」と言われると何やら堅苦しいといいますか、学問的分類でもあるかと思ってしまうところながら、

これを「ライフスタイル」と置き換えると身近感があるのも否めないところかと。

 

それだけカタカナ語の氾濫にどっぷりつかっている昨今とも言えなくはないですが、

それにしても「少欲の生活様式」、「知足の生活様式」と言われるよりも

「コンパクトなライフスタイル」、「シンプルなライフスタイル」の方が受け止めやすくあろうかと思うところです。

 

そして、ここでの置き換えの極めつけが「利他」を「シェア」としていることでしょうか。

どうしても「利他」⇔「利己」と考えて、利己的が極めて自分勝手な印象もある反面、

利他的であるということには自分のことはどうでもいいから他の人のことを思うてなことを想像してしまう。

「コトバンク」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)の語釈の中にも

「自分を犠牲にして、他人に利益を与えること。」などと出ていたりしますし。

 

ですが、ここで「自分を犠牲にして」求められるのが必ずしも全面的、絶対的なものでなく、

よくよく考えればほどほどの程度でということもあり得ないことではないですね。

全くもって自分を犠牲にして、何もかも他人の利益に…てなふうに考えてしまうと、

それこそイチかバチかの世界になって、そんなことできないから何もしないになってしまいそうな。

 

そのあたり、実は「ほどほど」があっていいのですよと教えてくれるのが、

「利他」の「シェア」への置き換えということになるように思えるわけです。

「シェア」には、いくばくかは別にしても自分の分け前も残りそうですものね(笑)。

 

仏教の教え、仏典とは実に実に古くからあるものですけれど、

改めて思い致せばそれが釈迦の教えであるかどうかはともかくも、

かなり普遍的なことを言っておりますよね、もはや特定の宗教に限るものでなく。

 

それを漢字であるか、カタカナであるか、違う言語であるもまたともかく、

人が生きていく上で気に留めておかねばならないことを言っているわけで、

おそらくその伝え方にはその時その時の適当な方法があるのでしょう。

 

冒頭に触れた若いお坊さんはその辺に敏感であるが故にかような発信に至った。

昔のようにお寺との距離が近くは感じられない(宗門人別帳も寺請制度もなくなり)ときに、

ともすると今風の流行りに左右されたアピールをするお寺さんも出て来たりするわけですが、

同じ敏感さでも全く異なる方向性ではなかろうかと。

 

そんなことを考えると、宗教のありようそのものをも考え直す必要が

もしかしたらあるのかもしれませんですね。