自宅から徒歩でも行ける立川のたましんRISURUホール(要するに立川市民文化会館なんですが…)で
室内楽の演奏会を聴いてきたのでありますよ。
この時期恒例で「早春の室内楽」と銘打った演奏会は、国立音楽大学の教員によるもの。
コロナ騒ぎで延期になっていた昨年の演目をそのまま一年越しで持ってきたプログラムですが、
すでに桜は満開の状況では「早春の室内楽」はいささか不似合いにもなっていようかと。
オール・モーツァルト・プログラムであることからすれば、あたりが桜色に染まっているだけに
差し詰め「ピンクのモーツァルト」の演奏会とでもいいましょうか。
昔、そんな題名の曲が松田聖子にありましたですね。今もって意味はわかりませんが…。
と、余談はともかくとして、今回の演奏会ははフルート四重奏曲、オーボエ四重奏曲、
そしてピアノ四重奏曲第1番というプログラム、楽器のバリエーションを工夫できるのも
音大の教員によるメリットでありましょうね。
一方、楽器のバリエーションもさりながら、それぞれに作曲年代が
フルート四重奏曲はモーツァルトが21歳、オーボエの曲は25歳、ピアノの曲では29歳と、違いがあるばかりか、
それそれ作曲した場所もマンハイム、ミュンヘン、ウィーンという違いがありまして、
そのときそのときのモーツァルトの置かれた状況が曲にも反映しているようにも聴ける、
その辺が面白いところでもありましたよ。
フルート四重奏曲は、フルートがさわやかに駆け抜ける冒頭からして、
一気にあたりは春色に染まるという、まさに時季に適った一曲ですので、
「マンハイムの春」とでも呼びたくなるような。
これに対してオーボエ四重奏曲はいささか憂いを帯びた第2楽章や
第3楽章の舞曲には秋の実りを寿いでもいるようんで、言うなれば「ミュンヘンの秋」ですかね。
最後のピアノ四重奏曲第1番は、モーツァルトではとても限られた曲数しかない短調の曲であって、
ウィーンで暮らしに困っているようすなども思い浮かべれば、こちらは「ウィーンの冬」とでも言いたくなるところです。
ところで、交響曲第40番などと同じト短調であることの曲には、演奏前にいささかの解説トークがあったのですね。
モーツァルトの短調、例えばこのピアノ四重奏曲第1番もそうですが、これを演奏するにあたっては
あたかもベートーヴェンの曲であるかのように意識しているてな話がありまして、
天衣無縫な陽気さを醸す長調の曲との対比を強く意識するが故でありましょうかね。
音の出し方ひとつでも変えているのだという話でありました。
厳しい打撃音でもあるかというふうに始まる曲なだけに、
ベートーヴェンを思うということに「なるほど」とも思ったものながら、
歴史の時間軸で考えると、言うまでもないことですがべートーヴェンはモーツァルトよりも後の人であって、
早世したモーツァルトにとってはほとんどベートーヴェンを意識しようもないわけですから、
実際にはモーツァルトの短調がどのようなものであるかというのは後付けのような気もしたものです。
そんな思い巡らしのさなか、アンコールとして演奏されたのがベートーヴェンのピアノ四重奏曲なのですな。
WoO36-3という、なんでもベートーヴェン15歳頃の作品だということで、ヴァイオリン奏者の説明に曰く
「おそらくモーツァルトの作品を聴き知っていて書いたのでは…」とのこと。
確かにコロコロと転がる音型はモーツァルトを思い出させますですね。
と、こうした示唆をも考え合わせますと、後から現れたベートーヴェンは先人モーツァルトを相当に意識して、
モーツァルト自身が数少ない短調に込めた思いのほどは分からないものの、ベートーヴェンの受け止め方を通して
モーツァルトの短調はこう演奏されるのがよかろうということが、やはり後付けで出てきたのではなかろうかと。
モーツァルトの短調は数少なく、それだけにドラマティックであり、厳しくもあり、哀しくもある。
そうした思いによる演奏にはもちろん聴き入ってしまうわけですが、果たしてモーツァルト自身は
そうした演奏のありように「そんな大袈裟な…」と苦笑いしているかも知らんと思ったりしてしまいましたですよ。