ちょいと前にも三重テレビ制作の「祈り~神と仏と~」のことに触れましたですが、

また別の放送回分を見ております時に「ん?!」と思ったのですなあ。

「観音様は女性で…」といったことがレポーター役の方から聞こえてきたものですから。

 

このときの番組の内容は廃仏毀釈でありまして、

かつて大神神社の神宮寺であった大御輪寺に安置されていた十一面観音立像に

打ち毀しの類が及ぶのを避けるため、聖林寺に預けたてなことが語られたのでありました。

 

この、今は聖林寺のご本尊となっている十一面観音立像は国宝になっていて、

6月から(一年遅れで)東京・国立博物館の特別展にお目見えとなるだけに話題の仏様でしょうか、

そういえば先月のNHK「歴史秘話ヒストリア」にも登場されておりましたですな。

(ちなみに今月で「歴史秘話ヒストリア」は最終回となってしまったおりました…)

 

 

とまれ、この国宝仏に限らずですが、確かに観音様の立ち姿には

どっかり腰を据えた坐像に見る仏様のイメージとは異なって、すらりとした柔らかさがありまして、

なまじ?人の似姿(キリスト教では人が神の似姿とは言われますけれど)であるだけに

男性であろうか、女性であろうかてなことも考えてしまい、印象からして女性であるかのように見えるということも

ありましょうねえ。実際、個人的にも昔は何も考えずに印象でそのように受け止めておりました。

 

ですが、人には性別があるからといって仏様にもあると考えることが当たっておらないようで、

はっきりいえばどちらでもない、仏様には性別が無いというのが本当のところであるようですな。

 

さりながら、そんな仏様にどのような姿かたちを与えるかというときに、

女性でも男性でもないように見せるのはなかなかに難しいことだったのではないですかね。

男性でも女性でもあるというアンドロギュノス的なるものであれば、それぞれに特徴的なシンボルを

併置して作り出すこともできましょうけれど、どちらでもないのだと言われましても…と。

 

ですから(言い方は悪いですが)、どっちつかずの姿の上に

その仏の役割といったものを視覚化してのせていくという方法を講じたのでありましょう。

 

コトバンク(デジタル大辞泉)に曰く、観世音菩薩とは「世の人々の音声を観じて、その苦悩から救済する菩薩。

人々の姿に応じて大慈悲を行ずるところから千変万化の相となる」、そんな存在ですから、

救済、慈悲のところをつかまえて、優しく慈しみある姿を女性像的な要素で見せるようにしたのではないですかね。

 

今となってはステレオタイプな女性の旧来イメージとの誹りは免れないかもしれませんけれど、

その誹りは見る側こそが担うべきなのでありましょう。かかる結びつけで考えること自体、どうよと。

なにしろ本来的に仏は女性でも男性でもない、性別を超越しているといいましょうか、

そんな存在だということですので。

 

ただ…とこれまた不謹慎な言いようかもしれませんが、仏様を拝むときに何を思うか。

これまで考えるところは、自らの信心はさておいてなまじ身近なところにある仏教なだけに

仏像はひとえに宗教のためのものと思い、それをあたかも美術品のように見るのは不遜なのではないかとも。

 

ですが、例えばキリスト教会を訪ねて祭壇画などを見るときに、

そこが宗教の場所であることに思いは致した上で、それを美術品として眺めやっていることを思えば、

おそらく仏像、仏画に関しても同じ考えで臨むことはあながち間違いではないような。

そも作り手の側としても宗教的な思いを込めつつも、美しいものを作ろうとしていたことは間違いないでしょうから、

その側面を後世の者が見て取るのは作り手の本望でもあろうなあと思うところで。

 

多分に見る側の勝手な考えであるかもとは思うところながら、

このたびの思い巡らしの結果として、なんだかようやく吹っ切れた思いに到達した気がしたものでありますよ。

 

ところで、上のフライヤー(延期前の昨年のものですが)に配された聖林寺の観音様、

真正面から写されていますけれど、下から見上げる構図、観音様から見下ろされる構図で見た方が

より美しい気がするのですが、いかがでしょうかね…。