誰とは言いませんけれど、個人的に「ああ、うっとおしいなあ」と感じる演技といいますか、

言動で見せる役者(タレントか?)がおりまして、よくまあ、そういう人たちをたくさん集めたなと思っただけに

自ら進んでは出かけないであろうなあと思っていたところへ、誘いがかかり…。

見てきた映画は「新解釈・三國志」だったのでありますよ。

 

 

すでにレビューでは好き嫌いが見事に分かれているようですけれど、

こういう作りを「映画」として楽しむ人たちもいるのだなあ…というのが正直な印象でしょうか。

TV番組がその延長として映画化されるケースは山のようにありますけれど、

いわゆるバラエティー番組も映画になるご時勢なのですなあ。

 

ただ、中身そのものよりも外枠として、歴史にありがちな「諸説あり」に切り込む姿勢はあってよいような。

歴史のあれこれに対して、これまでに広く知られていることが「絶対」であるかのように受け止めていると、

その後の発見やら研究成果で思わぬイメージ転換を迫られることもなるわけで、

特に「諸説あり」とされるようなところに、「こんなことだったのかも」という一石を投じるのはありでしょうかね。

 

まあ、それほどまでに堅いことを言わずに娯楽作と見ればいいではないかという考え方もありましょう。

諸説にすら含まれない、明らかに虚構でもって作られるストーリーは山ほどありますから。

 

ただ、その場合には意表の突き方が、実際そうであったかもということと大きく離れていればいるほど、

納得というか、あきらめというか、そういうものだと受け止めやすくもなるような。

例えばですが、ちょいと前にNHKで放送された「光秀のスマホ」とか。

 

ここで言いたいことは、それだったら「光秀のスマホ」を映画にしたら…てなことではありませんで、

なにかこう、映画としてのフォーマットならではとか言う、「映画」ならではの矜持(とは大げさですが)、

そんなあたりのことを考えること自体が時勢に合わないのでしょうかねえ。

 

文学では文体へのこだわりなども大きな関心事となる「芥川賞」の方向にある作品と

もそっと肩の力を抜いて読み物として作り込む感のある「直木賞」に向くであろう作品とがありますから、

映画もそのフォーマットがと考えるばかりが映画ではないとは言えるものの、

その他なんでもが「直木賞」ではないように思うのですけれど。

 

まあ、ここで言っているようなことはただただ「昔はこうだった…」的な老人の昔語りでもありましょうか。

時流の変化についていけていないのかもしませんなあ。

自分がそうした状況にあるとして、個人的には全く否定的には考えておりませんけどね…。