中央本線の上り列車に山帰りの人が多く乗り込んでくるのに接して「ああ、また山登りでも…」と思ったことから、

せめて山らしさが見られるかと見てみた映画「フレンチアルプスで起きたこと」は、

確かに山を舞台にしておりましたが、話の焦点はちと想定外…でしたので、今度は山の話を描いた小説を。

 

ロジェ・フリゾン=ロッシュ『結ばれたロープ』、作者はフランス山岳ガイド協会の会長も務めた人ですが、

素人の余技ではなくして(新聞社にも勤めたりして)本当の文筆家だったようですなあ。

 

 

1941年発表の古い小説ですけれど、近年の再刊が新訳で刊行されるからには古びない魅力があるのでしょう。

刊行元(みずず書房)の紹介文はこのように。

モンブランのまわりの山々と、麓の町シャモニーを舞台にした、心ゆさぶられる物語。名ガイドの父親を山で亡くした青年ピエール、凍傷で足先を失ったガイド見習い、畜産や農業や林業で生計をたてながらも山への情熱にかりたてられる若者たちが、困難や障害をのりこえて生きてゆく。 自身がすぐれた高山ガイドである作者が山々で経験したことを思い出し、卓越した描写力と山への愛によって作り上げた驚くべき小説である。読む者に迫ってくる氷壁登攀、酷寒のビバーク、真夜中の氷河歩き……。そして時間とともに色彩が変化してゆく山々の姿は、時代をこえ国をこえた大きな魅力となっている。

アルプスの谷に広がる村の姿も、そこに住まい、生きた人ならではの描写があったりするのですよね。

あいにくとシャモニーには行ったことはありませんけれど、スイス・アルプスの麓の村の様子を思い出したりもしますですよ。

行進は真夜中ごろから始まっていた。牛の群れは、ばらばらの間隔で歩いて町を通りぬけ、鳴り響くカウベルの音でシャモニーの町じゅうを目ざめさせていた。皮の首輪をした牛頸の規則的な動きにしたがって鳴る鈴の音は、洗礼のカリヨンのように陽気であり、雌牛の重くて力強い歩みのリズムを刻んでいた。…牛の移動はこんなふうに一晩と一日のあいだずっと続くのだが、シャモニーでは文句を言う者はだれもいなかった。牛の群れが高地牧場へ登って行くことは、また美しい季節が来たことだとわかっているからである。

牧草地でのんびりと草を食む牛たちの動きがベルを揺らし、からんころんと音を立てる。

そんな印象ばかりのカウベルですけれど、これが隊列を組んで賑やかに通り過ぎるのも、風物詩なのですなあ。

また、そこに暮らす人々の知恵も語られておりますよ。

セルヴェッタの家は、ブレヴァンから落ちる雪崩のちょうど通り道にある。ところが、家が雪崩の被害にあったことは一度もない。以前のモンシュー荘は三百年も前からあそこにあったのに。昔の人のほうがわたしたちよりも、山をうまく読みとることができたのだ。

風景写真でよく見かける、アルプスの谷に点々と山小屋が立つ景色。

先日の「ブラタモリ」で、白川郷の合掌造り家屋が決して無造作に建ち並んでいるのではないことに触れてましたが、

それに擬えるのは適当ではないとしても、アルプスの山小屋も無造作に作られるのではなくして、

雪崩の通り道を考えて建てられていたのですなあ。ハイジの、アルムおんじの小屋もペーターの家も、

実はきっとそのあたりを踏まえておるのでしょうかね。

 

とまれ、麓の方ではいささかのんびり気分ですけれど、

山岳小説であるわけですから、そんなに穏やかな話ばかりではありませんですね。

高山では、特に日本でも夏場には雷に要注意なわけですが、山岳ガイド助手の言葉にこんなのがありました。

気分はよくなりましたか。ひどい衝撃でしたからね。以前にいちど、ヴァロ小屋にいたときに、気体放電でベッドから投げ出されたことがありました。でもここには手すりもありませんから、崖から落ちる危険もあったわけです。

これは、登山客を高峰へとガイドした帰り、雷の直撃に遭遇した直後の語り掛けです。

万が一、雷に打たれて転倒すれば命を失うような場所ですので、気を付けなければならないのはもちろんですが、

およそ4000mの高所ともなりますと雷の巣に近いとは想像するも、気体放電の力でベッドから投げ出されたりもするとは。

気体放電で思い浮かぶのは、下敷きをセーターで擦って頭の上にかざすと髪の毛が逆立つくらいの力がせいぜいですが、

気体放電だけで人の体も振り落とすのですなあ。くらばら、くわばら。

 

この語り掛けにつながる落雷で、上のあらすじに「名ガイドの父親を山で亡くした青年ピエール」とある名ガイドは

命を落とすことになる。残された登山客は茫然自失、そんな状態の客を無事に麓まで連れ下すガイド助手の姿は、

ひとつの見どころ(読みどころ)でありましたよ。そして…

ふたりは疲れていることも忘れた。疲労感が消え去る瞬間というのがつねにあるものだ。人間の体がきわめてみごとに調整されて、何時間でも何日でも何夜でもさらに何日でも、何も感じることなく歩き続けられるように思われる瞬間があるものだ。

とは、いわゆるクライマーズ・ハイではないの?と思うところながら、

山岳ガイドは生きて還るためにはこうした体の状況をも味方につけるのでありましょうかねえ。

滑落のトラウマを克服したピエールのたどり着いた人生観は実に厳しいものでしたなあ。

「ようするに、おまえの理屈によると、人生というのは命を失う危険があるときにはじめて生きるに値するということかね」
「だいたいそんなところから。人生は絶えざる闘いであるべきだと思う。闘わない人は不幸だ。安易なほうに身をゆだねる人は不幸だ。ぼくも、もうすこしでそういう人たちのひとりになるところだった」

話を受ける伯父もまたガイドですけれど、年齢を重ねた含蓄は若者の一直線に理解を示しながら、

それだけではないところをきちんと言葉で補うのですけれど、思いのたけは同じものがありましょう。

若いからこそ口にできる言葉でもあろうかと思うところながら、これを映画「フレンチアルプス…」のトマスが耳にしていたら

それこそずたぼろになって立ち直れないかもしれませんですなあ。

 

まあ、余談はともかく、この小説は長く読み継がれているようでありますね。

作家ポール・クローデルも折に触れて読み続けた一人で、巻頭に寄せる言葉を書いていますが、

この話を愛してやまないようすにいささか戸惑うほど。実際、読み始めてみれば確かな魅力のある小説であったなと、

そしてまた読み返したくもなるような気がしたものでありますよ。