ということで、江戸川乱歩の少年向け小説「サーカスの怪人」の表紙絵には
幼い頃に夢見の悪い思いをさせられたということで、いわばちょっとしたトラウマかなとも思ったり。
ところでトラウマ(Trauma)という言葉は、ドイツ語の「夢」(Traum)と綴りが似ているものですから、
てっきり語源的に同根かなとも思ったところが、トラウマの方はギリシア語由来ということで、
どうやら結果的に見た目が似たようになっただけなようで。
それはともかく、「サーカスの怪人」に接して以来今でも悪夢に苛まれており…ということもありませんので、
その程度で「トラウマかな」とは誠におこがましい話なわけですけれど、人によっては「そのくらいのことで…」と思えるような経験でも、
傷の残され具合は人それぞれで、一概には判断できないところでありましょう…てなことを、
見ながら思ったのが 映画「ぼくを探しに」でありましたよ。
主人公のポールは言葉を発すること、しゃべることのできないままに大人になってしまいますが、
その発端はどうやら、赤ん坊の頃に父親からいきなり「わっ!」と驚かされたことであるような。
あまりの驚きに言葉を失い(赤ん坊ですが)、一瞬「うっ」と息を詰めたのでしょうけれど、
以来、言葉を飲み込んだまま育っていったのですなあ。
そんなことからポールが記憶する限り、父親に良いイメージは残っておらず、
父母が早くに亡くなって伯母たちに育てられてきたことに関しても、
ポールの記憶はあいまいながら「父親が悪い」という印象を持ち続けているという。
そんなポールはあるとき、人付き合いの悪い隣人が実は封印された記憶を蘇らせる術に長けた占い師と知り、
「事実」を知りたいがために伯母たちが止めるのも聞かず、通い詰めることになるのでありますよ。
妖しげな薬草によって催眠状態となったポールはさまざまな記憶に行き当たり、ついには父母の死の真相を知るに至ると、
悪いのは父親ではなく、自分の言葉が失われたのもどうやら父親のせいではなかったと気付かされる…。
「事実」を知っている側にすれば、知らないままでいた方が幸せだろうと思う、
いわば親切心から事実を伏せるといった類いの話は実にたくさんあるわけですが、
この配慮が当人に理解されるかどうかは難しいところでありますね。
事実を知らないということ自体を知らないのであればいざ知らず、事実の核心だけが分からない、
しかもそれを知っている人がいて隠している…てな思いがありますと、いかな親切心と言ったとしても、
およそ当人の人生にやさぐれ感が出るのは必定でもありましょうし。
ここでは親切心てな言葉を使いましたですが、それは事実を知っていて語らない側が
語らないことを自ら納得させるための方便なのでしょうね。
おそらくは本当のところを言って聞かせたい気持ちはないではないとして、その伝え方が酷く難しい。
下手をすれば伝えたことで、反って事態を悪化させたりするとの想像も働いてしまいましょうから。
そこで、逃げを打つといってはあまりにあまりな言いようで、実際問題として、
類似のケースを抱えた家庭などもあろうかと思うとき、自分だったらどうできるてなことは言えないので、
無責任な物言いではありますけれど。
もしかしたら、本作のポールのように自らの行いによって事実に行き当たるのは、
そのプロセスを(他の誰でもなく)自らが選んだことに、結果はどうあれ、
そして時間はかかるにしても、自らを収めやすいかもしれませんですね。
他から聞かされて、何かしらの「悪」を相手のせいにするような責任転嫁ができない分、
自分で何とかするしかないという点において。もちろん簡単なことではないでしょうけれど…。