自宅のステレオで音楽を聴くこともままあるわけですが、
(といって、昨今はステレオで音楽を聴くというありようもレア化しているのかも…)
がつんと来るほどに音量を上げるのはなかなかに憚られるところでありますね。
単にアンプに付いているボリュームつまみの角度だけで言えば、
持てる能力の四分の一くらいしか出させていないのではないかと。
さぞやアンプくんも心残りなことでありましょう。
とまあ、かように自宅においては音を体で受け止めるというほどの聴取体験は
叶い難いことなわけですけれど、音圧を肌で感じることを体験できるのがコンサートホールであるわけで。
ですので、コンサートホールは、ある意味、非日常的な体験ができる場所でもありますが、
4月以降はぱったりと演奏会通いが途絶えて8カ月にもなろうかというご無沙汰もご無沙汰、
久しぶりに東京芸術劇場で読売日本交響楽団の演奏会に出かけてみようかと思い…。
すでに7月頃からはちょろちょろと再開され始め、秋以降は当初予定のとおりに開催されるようになってはいましたけれど、
予め欠席連絡をするとパスすることができる取扱いがあったものですから、
しばらく見送りを続けていたところ、そろそろ行ってみるかなと欠席連絡をしなかったわけですが、
当日が近づくにつれて、以前喧しく聞かされた「自粛要請」なんつう言葉が再び勢力回復してきたのですなあ。
東京芸術劇場大ホールの座席に身を沈めて音による空気振動取り巻かれるという体験、
曲目がまた、ブルックナーの交響曲第7番だったりしたもので、音楽のダイナミクスをたっぷりと感じられそうな予感、
そうしたところに心惹かれる部分もありましたけれど、結局は出向くのを見送ることにいたしました。
どうにも都心に出る気にならないのですなあ。
ひたすらにコロナ感染を恐れてというばかりではないものが、そこにはありますね。
また、不要不急の外出を控えるようにといった発信が自治体からなされているということでもない。
もはや国やら自治体やら何を言うかに左右されずに、それぞれ個々の自衛感覚のようなものでしょうかね。
かつては犬の散歩くらいならいいとか言った目安?が示されたりもしましたけれど、
結局のところ外に出ること自体がまずいのでなくして、人との近接した接触を少なくする想定が
あればよかろうと思ったりもしているのでありますよ。
政府が「GO TOなんとか」をやっているのだから出かけてもよかろうとか、
都が外出自粛と言っているのだから籠っていようとか、どのみちそうした掛け声はマスへの語りかけですものね。
国としては感染リスクが無くなったわけではなくとも、経済を回さなくてならず、
そこには多少の感染者が出ることには目をつぶっているわけですね。
感染者になるかもしれないのはひとりひとりの人であって、全体から見て少数であれば仕方がないと。
一方で、都の方でも全体に向かって一律に呼びかけるわけですから、
犬の散歩ではありませんが、個々の行動のどこまでが良くてどこからが良くないなんつう個別ケースを
いちいち例示できない。だから「外出自粛ったら外出自粛」ともなるわけで。
飲食店に対して店を早く閉めるよう求めるのも、
遅い時間になればなるほど酒飲んで話が大声なったりする可能性が高く、
それをしているのは店の側ではなくて利用者の側であるのに、それをどうともできないから店に求めることになる。
よくよく考えればひとりひとりの立ち居振る舞いの問題なのでしょうにね。
そんなこんなを考えるにつけ、お上がいいというのだからとにかくいい、
だめというなら全面的にだめてな受け止めをする思考停止状態ではいけんのだろうと思ったりするわけですが、
個人個人の考えは皆違って一様ではなく、むしろリスクはそこにあるように思えたり。
と、そんな説教めいた話はここまでとして、結局のところ見送った演奏会の代わりはやはり自宅で。
すでに触れましたように、どんなに頑張っても自宅でコンサートホールの音を再現はできませんけれど
(少なくとも生活騒音の侵入が多い自分の住まいにおいてはなおのこと)、ふだんよりも少しだけボリュームつまみを
上向き加減してブルックナーの7番に浸ってみることにしたのでありますよ。
それがこの場合のせめてものコロナへの抵抗ということで。
今回取り出しましたのは、オットー・クレンペラーがフィルハーモニア管を振った一枚。
度重なる病気や怪我に苛まれながらも80代後半まで指揮を続けたクレンペラーの不撓不屈にあやかる気持ちも込めて、
耳を傾けることにしたのでありました。コンサートホールの音には敵わぬものの、また別の感慨をも求めて…。