先日、立川のホールで社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」の公演を見てきたのでありますよ。

この手のイベントも今では満席で開催してもよしということになってはいるようですけれど、

さしあたりこの公演は一席とばしの半数入場となっていたことに気をゆるし、出かけてみたような次第です。

 

 

さりながら、笑いを伴う内容であることは承知の上とはいえ、

わざとらしくも大きな笑いがごく一部の客席から聞こえてきていたのはあまりいい感じがしないのも正直なところ。

そうしたことが見越されていたのか、半数設定の客席でも埋まり具合は決して芳しくはなく…。

まだまだこの手の公演には試練が続くということになりましょうかね。

 

と、そうした状況はそれとして、「ザ・ニュースペーパー」の公演を見る度に思うことではありますが、

日本は政治を「いじる」のが苦手なのだよなあ。まあ、そこに果敢に?挑んでいるのがこの集団であるも、

むしろこれを受け止める側として政治ネタのいじりに慣れていないものですから、

なんとなく一部の人のためのものみたいになってしまっているような気がするところです。

 

アメリカの有名なTV番組「サタデー・ナイト・ライブ」では何十年にもわたって

毎回政治いじりをTV放送の電波に乗せ続けていますけれど、こうしたことに比べて

いまだに親方日の丸的意識が残っていたり、マスコミの報道を安直に信じていたりする

日本の国民性(?)が大いに関わってもいるのでしょうかね、たぶん。

 

この政策が、この政党が、この政治家がこんなことになっていると具体的に示すことに

いささかなりとも忌避感があるとして、そんなことから日本でできるのはここまでなのかなというのが、

このほど映画「記憶にございません!」を見ても思うところなのでありました。

 

 

政治家の国会答弁としてありがちな、と思う「記憶にございません」のひと言。

これが政権党の側から頻発されるとして、この映画がそこへ斬りこむというわけでなく、

政治家にはありがちという、ある種狭い意味ながら一般論的な話として成り立ってもいるような。

ですので、これを現実的な政治風刺と言っていいかは悩ましいところなわけです。

 

一方で、話のベースとしてはアメリカ映画の「デーヴ」があるなと思うのは外れていないのではないかと。

大統領の急病に際してピンチヒッターとなった瓜二つの顔を持つデーヴ(ケヴィン・クラインが大統領とひとり二役)、

その後の政策は人が変わったようになり…とは、本当に人が変わっているのですけれど。

 

「記憶にございません!」の方は、超低支持率の不人気首相(中井貴一)が投げつけられた石の打ちどころ悪く

本当に記憶を喪失してしまい、その後の政策は人が変わったようになり…というものなのですから。

 

とまれこうした話の中で、「ん!」と思いましたのは首相が官房長官(草刈正雄)に

「あなたは何のために政治家をやっているのですか」と素朴に尋ねる場面でしょうか。

これに官房長官の答えて曰く、「(政治家として)長く生き延びるため」てなことでしたなあ。

 

記憶を失った首相はこれまでのしがらみやらなんやらを一切忘れてしまっていますので、

これに縛られずに国民にとって善いと思う政策にシフトしていくわけですけれど、

現実の政治が、あるいは政治家がこうしたことから離れているように思えるのは

とにもかくにもさまざまなしがらみにがんじがらめになっているからでもありましょうか。

 

官房長官のように自らの立場の安定を図ろうとすればするほど、

大義とは異なってもしがらみと仲良くやっていく方向を志向することになるのでしょう。

 

そんなことを考えたときに思い浮かんだのは、

政治家という役割はひとりの人が長く担うものではないのではないかということでして。

長くなればなるほど、何かとしがらんでしまいますから。

 

よい政策(誰にとっても絶対的にいいということばかりにはならないにせよ)は、

おそらくそれを担う人が誰であっても進められるであろうと思えば、

特定の誰かに政治家という役割を担わせ続ける意味はおよそ無いと思うわけで。

 

この場合には、ひとりひとりの人が政治と自らの関わり方を考える必要があろうと思いますけれど、

現行の政治のありようが「相変らずだな」という状況の中では、何かしらの転換を図ることも必要でしょうし。

とまあ、徒然にそんなことを考えた秋の一日なのでありました。