さて、外房・勝浦の宿で一泊した翌日には房総半島の南端を通り抜けようという算段でして。

徳島から室戸岬を目指した旅とどうにも重なるところがありますけれど、

とまれ、その途中で最初に立ち寄ったのが勝浦海中公園なのでありました。

 

 

天気が悪いので見映えはしませんが、この入り江の奥に見えている海中展望塔なるもの、

これが目玉であるわけながら、そちらに向かうのちょいとばかり後回し。

まずは入場無料の施設である海の資料館を覗いてみたのでありますよ。

 

 

勝浦海中公園のビジターセンターであるということ施設、一見、自動ドアの入口には「手動」と大書されていたり、

館内のようすもこんな具合。まあ、入場無料なのですから贅沢はいえませんなあ。

 

 

それでもパネル展示の解説に目を向けてみれば、それなりに興味深いものもあったりするのですよね。

まずもって房総半島の成り立ちはこのようであると。

 

 

色付き部分のが陸地の変化を表しているわけですけれど、

長い長い年月の間には海になったり、陸地になったりが繰り返されておる…となれば、

小松左京ではありませんが「日本沈没」なんつうこともいつかはあるのかもしれませんですね。

とまれ、今につながる形として約6000年前くらいには細身のちーばくんが姿を現しておりますのは

見てわかりやすいところではなかろうかと。

 

房総半島と三浦半島の部分がくっついていたり(だから浦賀水道が浅いのですかね)、

後に霞ケ浦ができるあたりは海が大きな入り江の状態であったことで汽水湖になっていくのだなと思ったり、

「ふむふむ」と思って眺めたものでありますよ。

 

 

ところで、先にも千葉と和歌山の関わりありそうなところには触れましたけれど、

関西から出稼ぎ漁民が渡ってきたりもしていたのですなあ。解説文にこんなふうにあります。

日本の沿岸漁業の基礎は、江戸時代初期(1600年代)までに、関西(摂州、紀州)で築かれた。そして、漁場の拡大をはかる上方漁民は、南は九州西北部、北は伊豆から房総にかけて出漁、一部は移住した。

海の交通路はそれまでにもなかったわけではないでしょうけれど、

想像するにさほど大きな船でもない当時の漁船にとっての航路は

漁場を求めて漁民たちが切り拓いたものだったのですなあ。

そして、大がかりな網漁もまた関西の漁労文化として関東に伝わったのだそうですね。

 

離れた土地は海が隔てていると思ってしまいがちながら、

その実、海を通じて深くつながっているということからはまだまだ知ることがたくさんありそうだな…と、

そんなことを考えたものなのでありました。