大阪城 を訪ねて天守に登った後には、歴史の痕跡を求めて
大阪城公園の中をゆらりと歩いてみることに。
すこしばかり時間を巻き戻すことにもなりますが、
大手門をくぐってすぐにでくわすのがこのような巨石を配した石垣でありますね。
ここに見られますのは大手口桝形の巨石と解説板にありまして、
巨大に一枚岩が石垣に組み込まれておりますが、城内ではこれでも最大ではないそうで。
ちなみに右側が約29畳敷、左側が約23畳敷の大きさで、
当然にして城の持ち主の権力を示そうというものなわけですが、
やはりこれも豊臣時代のものではなくして、時の権力者は徳川なのですよね。
一見して「それにしてもでかい石だぁね」と思ったものですけれど、
大阪城天守閣(という名の博物館)で見た映像によりますれば、
見た目そのままの巨石がここにはめ込まれているのでは必ずしもなくしてですね、
大きいけれど薄い板状の石が表面に貼ってあるという、
いささか見かけ倒しの工法が取られたりもしたということでありますよ。むむ。
ところでこの巨石部分のみならず、徳川による大阪城は天下普請として
諸大名が駆り出されるわけですけれど、石垣には数々の大名が自らの刻印を残している。
これは他の城でも見られるところながら、規模が大きい工事だったからでしょうか、
大阪城公園内には「刻印石広場」なんつうものまであるという。
天守台から一段下がったところにある刻印石広場には
このような石がごろごろと置かれておりまして、
ちなみにここに見える分銅紋は松江藩堀尾家のものだということで。
で、この刻印石広場のあるエリアの隅の方と、またその反対の隅の方に
豊臣時代に思いを馳せるよすががあったのですなあ。まずは、こちら。
数々の記録によりますれば、大坂夏の陣で「もはやこれまで」と思った淀殿と秀頼は
城内山里丸にあった櫓に隠れ、自害して果てたとされているようですけれど、
山里丸の一角にこの碑が建てられているのですね。
そして、また別の隅も隅、こちらにはこのような。
「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」ということですけれど、
さきほどの「自刃の地」の方は通りすがりに目を止めていく人もいるところながら、
こちらはわざわざ探さないとおよそ気付くことはない、そんな場所なのですよねえ。
太閤さんの人気と、淀殿への思いはまた別ということでもありましょうか、
かなり打ち捨てられ感のあるものでありましたよ。
大阪城豊國神社で神様として祀られている太閤さん、
こちらはかなりの人の注目を集めているわけですけれど、
さきほどまで見てきた山里丸のようすや自らの城とは様変わりした大阪城のことを
どんなふうに思っておりましょうかねえ…。