前日はすっかり真夏が戻ったかという暑さだったものですから、
いささかなりとも涼を求めてか、長瀞ライン下りの舟は夕方まで大賑わいしてましたなあ。


長瀞ライン下りの舟はゆく…

混雑を避けて翌日にでもと思って迎えた当日は朝から肌寒く、しとしと雨模様。
これでは如何ともし難いとライン下りは諦めて、ゆるゆる帰りに向かう中で立ち寄ったのは
彩の国ふれあい牧場でありました。


彩の国ふれあい牧場

開館中とは看板が出てはいるものの、外秩父の山の中ですので
あたりはすっかり霧の中で、牧場自体を見渡すこともできません。
晴れておれば、さぞ見晴らしもようかろうものを…。


晴れておれば見晴らしもよかろうものを…

そこで、モーモーハウス(写真で正面の建物)には展示施設があると知り、
そちらを覗いてみることに。



ビデオの上映コーナーで両親が子牛誕生のようすを見入っている間に、
こちらはちとパネル展示を見て廻りましたですが、いやあ、どこであっても、
それが子供向けであってもそれなりに知ることはある、水の科学館の如しです。


展示解説「ミルクの歴史と文化」@彩の国ふれあい牧場

例えば、このような「ミルクの歴史と文化」とか。
人類が初めてミルクを利用したのは今からおよそ1万年前、中石器時代とか。
最初は牛ではなくして山羊の乳であったそうですが、
乳を搾るからには家畜化する必要があり、牛よりは小型の山羊が適していたのでしょう。


ところで、アルファベットの「A」の文字は牛の頭部を象ったものだそうですね。
逆さまにしてみると、なるほど角の2本ある動物の顔のように見えてきます。
紀元前3000年のエジプト、この頃には牛も飼い慣らされていたのでしょう、
労働力として大切な牛を飼うことは富の象徴とも目され、
また「豊穣の神」として祀られたりもしたようです。


紀元前1400年頃のアラビア、砂漠を行き来するキャラバンで
水筒に山羊の乳を入れておいたところ、炎天下で発酵してしてしまい、
白いかたまりになってしまったと。チーズはこんなふうに生まれたということでありますよ。


一方でミルクと日本の関わり。日本での乳製品文化の始まりは詳らかではないものの、
そも「醍醐」という言葉は乳製品を意味しているそうな。だからということなのか?、
平安時代の醍醐天皇が定めた延喜式の中にはチーズの作り方まで出ているというのですなあ。

ただ、平安期のミルク文化は鎌倉以降、戦乱が多くなると途絶えてしまい、
再び日の目を見るのは江戸中期になってからだそうで。


このミルク文化復活に関わったのが、時の将軍・徳川吉宗であると。
馬術に興味を持っていたという吉宗、ミルクやバターの必要性の元々は
馬の医療用であったということです。


幕府が天領とした嶺岡牧(現在の千葉県南部)で牛を飼育したのが
日本の酪農の元祖とも言われているそうな。


さて、維新前夜、条約に基づいてアメリカからやってきたタンゼント・ハリスは
日本にミルクを飲む習慣を残したということですけれど、ハリス帰国の翌年、1863年に
「千葉県の前田留吉がオランダ人ペローから搾乳や処理の技術を学び、
横浜で日本最初の牛乳製造販売を開始」(関東生乳販売農業協同組合連合会HPより)。


てなようなところから日本の牛乳消費は伸びていったのでしょうけれど、

個人的には学校給食で相当に飲んだ(というか、飲まされたというか)ですなあ。


ついぞ最近では見かけない200ミリリットル入りの牛乳瓶でしたですが、

ふと見ればその瓶入り牛乳がモーモーハウスで売られているではありませんか。


200ml入り瓶牛乳

予想に違わず濃厚で、ほのかに感じる甘みが心地よい。

学校給食の牛乳がこのようなものであったとしたら、

もそっと食の味わいを感じ取れるようになって、

やたらに甘いとかいう、強い味付けに頼らなくともいい味覚が養えていたのではと思ったりも。


天気が天気で牧場らしさを目の当たりすることはできませんでしたけれど、

それなりに立ち寄った甲斐のある彩の国ふれあい牧場なのでありました。