さて道の駅さわら
から香取神宮まではもう目と鼻の先…と楽観視しておりましたですが、
途中から車が多くなり、最終的に参道への一本道と思しき段階になると
数珠繋がりになってしまいました。
後から考えれば、最寄りに無料駐車場があることを知っている慣れた人たちが
そこを狙っての車の列だったのだなと。
それでもいつになったら空きが出るかも分からぬ中では、
沿道のお宅が自邸の庭を一時的に鞍替えする「臨時駐車場」に停めて、少々の歩き。
果たして下総国一宮たる香取神宮に到着したのでありました。
知名度では鹿島神宮
に些か劣るやもしれませんですが、
お天気下り坂で訪ねた鹿島神宮(それでも大した賑わいでしたけれど)以上に
空模様が回復基調となっていた中で訪ねる香取神宮は賑わい一入でありましたですよ。
鹿島の平らな森とは違って里山に乗った形の香取神宮はくねりながらの山道を登るふう。
もちろん両側には屋台の店(外国人の店多し)が並ぶ広い参道ですが、
やがて総門にたどりつきます。
ここまでのところで、階段上がった先は拝殿でそこへお参りしておしまい…
であってもおかしくないくらいですが、ここからまだもうひとうねり参道を進むのですなあ。
ということで、次に目の前に立ち現れましたのが、
「参拝者入口」と大書した看板が正月参詣の名残りを感じさせる楼門であります。
元禄十三年(1700年)、時の将軍徳川綱吉 によって本殿などと同時期に造営されたそうな。
本殿共々国の重要文化財となっているとのことなのですが、
鹿島神宮の社殿が家康・秀忠の寄進によるのに対して
「綱吉か…」と思ってしまうのは、ちと差別しすぎでありましょうかね。
とまれ楼門を潜り、真っ直ぐに進みますといよいよもって拝殿・本殿となってまいります。
ちと話にのぼすのが遅くなりましたですが、香取神宮の祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。
昔々、神々の戦国時代みたいなときに天照大御神の命を受けてこれを平定、
よって「国家鎮護、国運開発の神、民業指導の神、武徳の祖神として広く仰がれて」いるそうな。
創建は神武天皇十八年ということですので、これまた紀元前。
大変な由緒というか、伝承というかですなあ。
ところで、参道の途中にある案内表示を見て「?」と。
本殿方向に向かって左手に枝分かれする、こちらは文字通りの山道と思しき方に向けて
「要石」との表示が立っていたのでありますよ。
地震封じの要石とはてっきり鹿島神宮の専売特許かと思えば、そうではないようで。
大なまずの頭と尾っぽを大石で押えたということで二箇所にあるのですなあ。
どっちがどっちとは判然としませんが、鹿島が頭なら香取は尾っぽを押えておるのでしょう。
いずれにしても大石の天辺だけが地中から顔を出しているわけですけれど、
顔を出している部分が鹿島のは凹形であるのに対して、
香取の方は凸形とは一目瞭然でありました。
ちなみに鹿島神宮の要石を水戸のご老公が掘らせてみた話が伝わっていましたが、
黄門様はご無体なことに?こちらの要石もやっぱり掘らせたのだとか。
結局こちらも根本まで掘りつくすことはできなかったようですが…。
ここまでいろいろと寄り道はありましたですが、これで東国三社を無事に巡り終えました。
数年来、正月にはいづくかの七福神を巡って景気づけとしていたところが、
年の瀬に不意打ちをくらった肉離れの養生に努めるため七福神巡りは見送っておりました。
それを補って余りある東国三社巡りであったと思っておりますよ。
で、不遜なことながら東国三社を個人的な感覚で比べてみれば、
香取神宮を一番に推したいなあという気が。
境内の雰囲気や社殿の配置、そして建築…といったあたりは好みの問題ではありますが、
実は参拝時の祈願がたちどころに成就したという点において「すごいじゃん」と。
祈願の中身はといえば、尾籠な話で恐縮ながら
旅先で食べなれない量の食事のせいか、トイレを頻繁に利用する状況に立ち至っていたのですね。
これが香取でお願いすると「ピタリ」と止まって、帰路の車中を極めて穏やかにすごせることに。
もっとも参拝の際にたまたま小銭を切らし、
大枚500円玉(これも小銭か?)を投じて祈願しただけに、
「叶わぬはずがない」とのプラシーボ効果かもしれませんけれど(笑)。
とまれ、即座のご利益にも預かって、
ひと巡りして参りました東国三社紀行はこれにて幕となりまする。