茂木本家美術館 のところでちと触れたですが、野田醤油会社には茂木六家のほか、
野田の上花輪村名主であった高梨家、そして唯一流山から参画した堀切家、
これらが集ってできあがったのが、今ではキッコーマンとなった会社だったわけですね。


で、流山の堀切家というのはもっぱら味醂造りに携わっていたのだそうでして、
「万上みりん」がキッコーマンから出ているのはこうした経緯のようですな。


ところで、もうひとつの高梨家ですけれど、
野田でいちばん早くに醤油造りを始めたのが高梨家であったそうな。

1661年(寛文元年)のことだそうで。


すでにして個々に醸造家として立っていた頃から大層羽振りがよかったようでして、
そんな栄華を偲ばせるのが、高梨本家の邸宅・庭園であった上花輪歴史館でありましょう。


上花輪歴史館


入口からして立派な構えではありませんか。
冠木門があり、その奥には立派な長屋門があって…と思っていましたら、

受付の方曰く「これは門長屋である」と。侍ではないので、門を構えられないからというのですね。


長屋門でなく門長屋?


もの知らずとしては、門のような長屋を「門長屋」と言い、
「長屋門」とは何かしらの違いがあるのだろう…と受け止めて、
後から検索してみたところ「長屋門」=「門長屋」であると出てくる。


これまで「門長屋」という表現に出くわしたことが無かったものですから、
てっきり違いがあるものと思ったですが…。


とまれ、今でも長屋としての収納スペースぶりは健在であって、
解説に従って天井を仰ぎみれば、太い綱が吊るしてありましたですが、
この綱というのがただの綱ではないのですなあ。


先に茂木本家美術館で見た北斎の絵に船を繋ぎ渡して橋にしている図がありましたけれど、
徳川将軍が江戸川を越してどこぞへ参るという際には臨時に「御船橋」を掛けたのだそうな。
区間としては松戸と金町の間だそうですから、その後の常磐線のルートと同じですね。


この「御船橋」を掛ける際にはあたり一帯の名主などが協力を求められたようですが、
上花輪村の高梨家でもこれに関わり、その御船橋を固定するのに使った綱を使用後に
有難く頂戴し、門長屋で保管してある…ということのようでありますよ。


上花輪歴史館 館内図


と、門長屋から先へ進みますが、今では一部が駐車場になってしまっているものの、
それでもなかなかに広い敷地で、屋敷も立派なものながら、
取り分け庭は「高梨氏庭園」として国指定の名勝になっているというから、大したものです。



ただ回遊式庭園みたいに作りこまれたものではなくして、
大部分は自然をそのまま大事に活かしたふうでありますので、
あたかも山道に迷い込んだかのような印象が。



そして、鬱蒼とした屋敷林の向こうは突如として深く切れ落ちた掘割になっているという。
なんでも屋敷内から直接江戸川に漕ぎ出すことのできる私設運河であったようですね。


高梨家用の掘割


野田市駅から直接歩いてくると20分ほどとちょいと離れている印象ながら、
昔は反って江戸川が近く、船で荷を積み出したりするにも便利だったのでしょう。



もちろんそこここに残る、かつて醤油醸造に用いられた器具なども貴重な史料になりましょう。
蔵を模したような新設の展示棟にも往時を偲ばせるものがたくさん展示されておりました。

例えば江戸の将軍に献上する「上納醤油」のレシピですな。
一石(=十斗=百升すなわち一升瓶100本分)の上納醤油を造る原料として、
上州産の大豆、相州産の小麦、播州赤穂産の塩をそれぞれ五斗ずつ仕込むのだそうで。


先に高崎を訪ねた先に上州は粉ものに強い、つまりは小麦の産地と考えたわけですが、
江戸の頃には品質で相州産の小麦が上回っていたのですかね。
塩に関しては播州赤穂の指定はやはりというべきでしょうか。


そして、諸味から搾り出す際の布には羽二重で二度漉ししたといいますから、
庶民の口に入るものとは違っていたのでありましょうなあ。


と、屋敷のことにほとんど触れませんでしたが、

屋敷の内覧は予約制によるガイドツアーとのこと。
野田市内をふらふらするのと設定時間がうまくかみ合わなかったのでして、
外回りだけとなってしまったのはそういうわけでございました。



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