養生重ねた週末は引きこもり状態でありましたから新しい話題とてこれ無く、

まあ、高崎話の続きをご披露する程度でして。

これもだいぶ終わりに近づいておりますので、どうかご容赦のほどを…。




観音塚古墳 を訪ねた後の話としてはいささか唐突ながら、

上州高崎といえば「縁起だるま」で有名でありますね。
高崎駅を降りたところからすでにして、だるま名物が始まっているわけでして。


高崎駅のだるま


駅の構内からペデストリアン・デッキに出る扉のところで、だるまさんがお出迎え。
そして駅西口を出て右手にある駅ビルの側壁面には、

群馬県富岡市出身の画家・福沢一郎の原画による「だるまの詩」なる大きな壁画があるという。


福沢一郎「だるまの詩」


群馬八幡の方に来てみれば、今度はだるまの製造販売をしているお店があり、
ガイドブックには絵付けをして「Myだるま」の製作体験もできるのだとか(試してませんが)。


作りかけの赤いだるま 作りかけの白いだるま


店の前には製作過程にあるのでしょうか、
いまだ真っ白なだるまと取り敢えず全体を赤く塗っただるまとが天日干ししてありました。


とまあ、かようにだるまが名物の高崎であるわけですが、
その大元になるところへ観音塚古墳から自転車で向かったのでありますよ。
たどり着いたのは縁起だるま発祥の寺という少林山達磨寺でありました。


縁起だるま発祥の寺・少林山達磨寺


で、この少林山達磨寺、結構な古刹でもあろうかと勝手に思い込んでいましたけれど、
どうやらそうでもないようす。


元は行基の作った観音像が祀られたお堂があるだけだったところに、
一了居士という行者が達磨大師座禅姿の木像を彫って安置したのが延宝八年(1680年)。


ほどなく同地は達磨大師の霊地少林山と語り伝えられていくことになりますが、
元禄十年(1697年)に当時の領主であった酒井忠挙(ただたか)が寺院建立を発願。
水戸光圀に相談して光圀の師である心越禅師を招いて開山した…というのが縁起であるようで。

お寺さんで始まりが江戸時代と言われると、妙に新しいものに思えたりするものですな。


では、「縁起だるま」の由来の方はどのようなものであるかですけれど、
達磨寺の説明書きから引いてみますと、このようなことであるそうな。

…天明三年(1782年)には浅間山が大噴火し、降灰の災害により「天明の大飢饉」が起こった。 当山九代目東嶽和尚は農家の窮状を見かね開山心越禅師が描いた「一筆書き達磨像」を元に木型を彫りそれに紙を貼り乾いたら木型を抜く「張子だるま」の製法を豊岡村・山縣朋五郎に伝授し霊符尊が降臨する正月縁日の七草大祭で売られ「縁起だるま」と「だるま市」の始まりとなる。

「冬場には空っ風の吹く上州の乾燥した気候」も適していただるま作りはその後、

農閑期の副業として盛んになり、やがて全国に普及していたのだと言いますが、

もしかすると各地には各様の発祥のいわれがあったりするかも…。


とまれ、全国に普及後はさまざまな素材、形状で作られるだるまが生まれるも、
発祥地としての自負があるところとしては全国さまざまなだるまの収集保存などにも

力を入れておるようで、その紹介施設として「達磨堂」なる建物も造られているという。


達磨堂@少林山達磨寺


堂内の資料は撮影禁止なので扁額だけですけれど、

いわゆるおもちゃの類いまで集めてあるものですから、

もはや達磨の範疇ではないのでは…というものまでぎっしり。
ロシア代表でマトリョーシカ(全く達磨然とはしていない普通のもの)が納められており、
「これは違うだろう…」と思ったりもしましたですが。


ところで「縁起だるま」は願いごとをしつつ右眼を入れ、それが叶ったときに

左眼を入れるてなふうに使いますけれど、そうそう叶う願いばかりであるはずもなく、
年初に右眼、そして一年間無事に過ごせた時に左眼を入れるという使い方で、

だるまも使命を全うしているのやもしれませんですね。


そんな使い方の結果でしょうか、霊符堂(本堂にあたります)の周囲には
両目の入った縁起だるま(それもかなり大きなもの)がごろごろと積み重なっておりましたですよ。


役目を終えただるまが霊符堂に積まれて…


そして、たまたま本堂裏手に回りこんだときに発見したですが、
どうやら積もり積もった縁起だるまはここで焚き上げられるのでしょうなあ。
灰の中に焼け残りと思しき片目が残っているとは、あんまりいいものではないような…。


やがてだるまは焚き上げられて…


そうそう、高崎のだるまで有名なのがもう一つありましたですね。
高崎駅の駅弁「だるま弁当」ですけれど、これの話はもちょいと先に…。


高崎名物「だるま弁当」

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