さて、製粉ミュージアム新館 に隣接する本館へとやってまいりました。
こちらは打って変わってレトロな雰囲気を醸しておりましたですよ。
なんでも1910年(明治43年)に建てられた旧工場事務所であった建物だそうで。
どうやらグッドデザイン賞とは、補修を終えたこちらの方だったようでありますね。
と、展示の方はその概観にも似つかわしく企業史ということになりますが、
元より館林というところは、肥沃で水はけのよいことに加え、日照時間は長く、水も豊富と、
小麦作りとうどんの加工に向いた土地柄であったようす。
ですから製品としてのうどんもさりながら、
それの元になる小麦粉作りは水車を利用して古くから行われていたようであります。
が、明治ともなると外国との貿易が盛んになってきまして、登場したのが「メリケン粉」です。
何とも懐かしい響きの言葉ですけれど、要するに小麦粉であることに違いはない。
ですが、決定的な違いは輸入ものは機械挽きでもってきめが細かく均質で、
この点では国内産の水車挽きでは敵うところではなかったのですなあ。
生産量の点でも圧倒的な違いがあったことでしょう。
市場では輸入ものがどんどんシェアを拡大する一方、国産シェアは食われるばかり。
土地の産物を扱う点からも、醤油事業の本家
とは別に製粉事業を手を染め、
1900年(明治33年)に館林製粉を立ち上げた正田貞一郎も、
「メリケン粉」に勝負を挑むにはこちらも機械式でなければと
米国製機械の導入に動きます。
1908年に東武鉄道が館林駅を開業させると、駅直結の形で工場を作り、
米国から取り寄せた機械を据えて操業を開始するのでありますよ。
これは展示にあった特約販売店用の看板ですけれど、
「最新機械製小麦粉」であることをはっきり「売り」にしてますですね。
また同時期に、横浜にあった日清製粉を吸収合併しますけれど、
存続会社の名称を館林製粉としてはローカル色が強すぎると敢えて「日清製粉」の名を残し、
本社も創業地を離れて東京・日本橋に移す。
また社長には東武鉄道の社長であった根津嘉一郎に就任してもらったことも含めて、
最初から地方企業で終わるつもりは全くなかったということになりましょうかね。
東武・根津との人脈は、駅直結の工場立地からも想像するところですけれど、
確かな経営手腕に社長を任せ、専務の正田は海外の製粉事業視察へと出かけていくのですね。
これも根津との信頼関係あればこそではないかと。
この外遊での成果が形となって、
1926年(昭和元年)には生産量日本一の会社となっていくわけですけれど、
戦中戦後の苦難を乗り越え、その後の躍進云々に逐一触れていては
日清製粉の広告塔になってしまいますので、ここは端折ってしまいましょう。
出入口のある新館に戻りますと、
受付のとなりの部屋に日清製粉グループが製造する製品の数々が展示されているも、
「おや、あの超有名商品が無いではないか…」と。
そういえば、互いに全く関係のない会社だと聞いたことがあったことを思い出しました。
そうそう、そうなんですね。「カップ・ヌードル」を作っている日清食品は、
日清製粉とはいささかも関わりのない会社でした。
ちなみに日清製粉グループには日清フーズという会社がある…と、やっぱり紛らわしいですなぁ。
とまれ、日本一のシェアを持つ製粉会社の礎は館林にあったというお話でありました。