仕事の関係でとある施設を訪ね、門のところにある守衛所に立ち寄った折、
やおら一陣の寒風が吹き抜けていったのですね。
外に立っている歩哨(自衛隊に行ったわけではありませんが)の役回りをしている警備の人が
風が吹き込むや「おおお!」と声を挙げたのですが、その後に続く言葉として
「いい風だ!」とひとりごちておられたのでありますよ。
寒い風が吹き抜けたところですから、「おお、寒い」とか何とか言う言葉かと思えば、
「おお、いい風だ」とは、何と前向き志向の方であろうかと思ったわけです。
「言うまいと思えど今日の寒さかな」(「暑さかな」とも)てな川柳だか何だかがありますけれど、
この時節、わざわざ「寒い、寒い」と言わなくても、基本的には誰にだって寒いわけで、
言っても詮無いこと、寒さのダメ押しになるだけ…と思っても、つい「寒いな」と言ってしまう。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
「サラダ記念日」所載のこの俳句のように、
寒いときに寒いという言わでもがなのことを言うところからコミュニケーションが生じて、
人との触れ合いをぬくもりとして受け止めるなんつう場面もありましょうけれど、
だいたい、寒いときに「寒い」といってしまう発想は後ろ向きというか、ネガティブというか、
そういうものではなかろうかと。
それがふいに出くわしたひと言が「いい風だ」だったものですから、
そう来たか!と非常に新鮮な思いがしたものです。
自戒を込めて省みるに、ついこぼしてしまうひと言で
およそ前向きさを感じさせる言葉は出てきてないなぁと思うものですから。
というところで、いささか藪から棒ですけれど、
最近聴いた「天災」という落語を思い出したのですね。
気が短くてやたら難癖ふっかけてしまうような八っつぁんがご隠居に窘められて、
心学の先生を紹介するから話を聞いてこいと言われ、出掛けていった…と始まります。
「道を歩いていて、屋根瓦のかけらが落ちてきて、頭にぶつかった。おまえさん、どうする?」
心学の先生にこう尋ねられた八っつぁん曰く「その家にねじ込んで、賠償金でもふんだくってやる」と。
驚きつつも先生が重ねて問うに「その家が空き家だったら、おまえさん、どうする?」、
すかさず「次にへえってくるやつをとっつかまえて、賠償金をふんだくってやる」と
飽くまで意気軒昂な八っつぁん。
呆れかえるも心学の先生、質問を変えて穏やかに訊きます。
「ひろ~いのっぱら、周りには何にもない。そんなところで雨に降られてずぶぬれになった。どうする?」
状況をよぉく思い浮かべて、ねじ込む先の無いことに気付いた八っつぁん、
困り果てた末に「仕方がねえや。おてんとさまのこったとあきらめる」と。
ここで心学の先生、我が意を得たりと
「何事もそのように考えてみたらどうかね」と諭すのでありました。
そうなんですよね。例えば満員電車の中で、
スマホの画面を見ていたいがために無理無理自分のスペースを確保しようとする輩に
背中を押されてしょうがないような場合、「なんだよ、こいつは…」と思ってみても、
周りじゅうにそういう人が山ほどいることもあって、いかんともしがたい。
となれば、自然にそこにあった石に蹴躓いてしまった的に考えれば、
文句を言っても始まりませんですね、何しろ相手はそこにあった石ですから。
そんなふうに考えますと、「全くもう…」みたいなことをさらり忘れて、
前向きに行こうじゃあないかと思えるような気がして、
実際そんなふうに考えようと思ったこともあるわけです。
ですが、なかなか長続きしないのですなぁ。
ただ、折に触れてこうしたことを思い出すとすれば、
長続きしなくても頻度でカバーするてなことになりましょうかね。
ところで先の落語ですが、心学の先生の話に感心した八っつぁん、
早速仲間の熊さんのところに出掛けていき、先生の話を知ったかぶりに吹聴するのですね。
それがうろ覚えだものですから頓珍漢な話になってしまう辺り、
やはり落語の「道灌」(太田道灌の山吹伝説を聞きかじって仲間に話すが大失敗)などと
おんなじ顛末をたどることになります。
つまり、八っつぁんにしてみれば、先生の話に感心したものの、
それを我が身に沁み入らせてというよりは誰彼なく受け売り話を聞かせて感心されたい
という目的。
これでは何にもならないわけですが、「受け売り話を聞かせて感心されたい」という部分、
このブログも多分にそんなところがあるようなと思えば、これまた自戒せねば…でありますね(笑)。