20世紀初頭、ロシアではアルセニエフ率いる一隊を沿海州の踏査に派遣、
彼らは凍りついたツンドラの大地、鬱蒼たる針葉樹林帯タイガを踏み越え踏み越え、
測量をして廻るのでありました。


科学技術の発達は軍事的要請によるところがあったのは事実であろうと思いますが、
地誌学的なところもまた、同様でありましょうね。


映画で見た「剣岳 点の記」でもそんなことが窺えますし、
伊能忠敬の日本沿岸部踏破も実のところ軍事的要請でもあったでしょうし。


映画「デルス・ウザーラ」を見始めた段階ではそんなことを考えていたですが、
見ているうちに考えはまた随分と違う方向へ流れていきました。


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アルセニエフ一行がたまたま森の中で出くわした一人のゴリド人猟師、デルス・ウザーラ。
たった一人で過酷な自然を受け入れ、あるいは往なしながら共存してりるデルスは
道案内としてアルセニエフ隊を先導していくことになります。


最初はあまりに未開の人らしさまる出し感のあるデルスを隊員たちは笑ったりしたものの、
やがて経験に培われた洞察力と自然への対処能力の高さに舌を巻くことになっていく。
また、分を弁え、欲張るということのない姿がアルセニエフにはとても高潔なものに映るのですね。


ある時、デルスがアルセニエフに「わたし、悪い人」と切り出します。
アルセニエフが何かと思えば、「米と塩、それにマッチを少々分けてほしい」とのこと。
デルスにしてみれば、何の見返りもない単なるおねだりをする、
この事自体「わたし、悪い人」と恥じらいの前置きが必要だったのでしょう。


しかも、ここで譲り受けようとしている少々、米と塩とマッチは自分が消費するものでなく、
たまたま一夜の宿に借りた、誰も住まわず打ち捨てられた掘立小屋に残していくつもりであると。


誰がいつ通り掛かるという当てがあるわけでもないですが、
万一誰かがこの掘立小屋にたどり着いたときに、

いくばくかの食糧が大きな救いになるであろうというわけですね。


これは単純にデルスのひたすらな善人ぶりを示すのではもちろんなくして
デルス自身、どこかしらで誰のおかげともしれない施しに助けられたことがあったのでしょう。


ロシアの遠征隊と同行している今の自分は食料にも困ることはないとしても、
後からこの小屋に来るものの境遇が同様であるはずはない。
実際、デルスが初めてアルセニエフ隊と遭遇したとき、食事を進められデルスは
「わし、朝から何も食っていない」ということを言っていましたし。


猟をしているとはいえ、必ずしも獲物にありつける時ばかりではないでしょうし、
食うや食わずで彷徨い歩かざるを得ないこともありましょうから、
いかに自然と共生できているとはいえ、デルスの姿に

「昔は良かった…」的な印象を持つとすればどうよ?と思うところではあります。


ですが、太古からの積み重ねで人に蓄積されてきた「知恵」が

デルスには生きていたとは言えましょうか。
おそらくはそうした「知恵」の部分を科学技術の進歩が補っていき、知恵を忘れ去る代わりに
どのような科学技術=その反映として、どのような機械を使えば対処できるかという「知識」が
身についていったものと思われます。


ここでの「知恵」と「知識」の違いは、
そこにあるものだけで何とか工夫してしのぐのが「知恵」であるのに対し、
何かしらの機械があればしのげると知っていてもその機械がなければ対処できないのが

「知識」となりましょうか。


アルセニエフ達が小舟で川を遡行していたときのこと。
凍結してそれ以上進めなくなったところで、機材の番に隊員をその場に残し、
アルセニエフはデルスと二人、その先にあるという湖の探検に出掛けます。


湖まで到達した帰途、天気が急変し、
吹き出した大風に足跡が消されて元の場所に帰り付けなくなることを心配するデルス。
結果的に彼らは嵐の中で道に迷い、日暮れどきに差し掛かってしまう。
太陽が沈み、夜になってしまえばもはや凍死が待ち受けるばかり。


アルセニエフの「知識」では

これに対処すべき何らの機械、器材が見いだせないことから途方にくれるばかり。
一方、デルスは大氷原にわずかに見られる草の穂をとにかくたくさん刈り集めることを

指示します。


何とか山のように刈り取った草をロープで押さえつけ、中に潜り込んで風雪をしのぐ。
デルスの「知恵」に助けられたアルセニエフは「命の恩人」と感謝するのですね。


それだけにデルスが老いて、もはや森での生活は難しかろうとなったとき、
アルセニエフはデルスをハバロフスクの自宅に迎え入れ、暖かくのんびり暮らしてもらおうと
恩返しを試みることになりますが、デルスが町でどうなるのかは想像に難くないところでありましょう。


逆に考えれば、町に暮らす人が森の中で生きて行くことができるかと言えば、
映画の中で世捨て人になった中国人が何十年も森にいたことが出てきますけれど、
そうした死んでもいい状態、むしろ死にに行っているのではないかという状況でなければ
できないことではなかろうかと。


もちろん、だからと言って先にも言いましたように
デルスのような方が本来なんだ、素晴らしいんだとは軽々しく言えたものではない。
ですが、代替物があることを前提にして「知恵」を失ってしまっていいかというと
決してそうではないような。


そうそう、最後になりましたけれど、
これは黒沢明監督がロシアで撮った合作作品でありまして、

映像的には「ああ、日本の映画だな」と。


デルスがアルセニエフらと森の中でたき火を囲んでいるシーン。
会話が無いわけではありませんが、その頻度の少ないこと。
そうした「間」を感じるところなども「日本の映画だな」と思った所以でありますよ。