市の中心からちと離れたところにある五高記念館@熊本大学 に続いて、
自転車を駆って向かいましたのは、小泉八雲熊本旧居でありました。
これが、熊大とはうってかわって繁華なエリアにあり、
そこだけ時間に取り残されたかのように佇んでいたのでありますよ。
と、夏目漱石
が内坪井の家
に住んでいる頃には夏目金之助であったように、
ここも「小泉八雲熊本旧居」というものの、熊本にいた頃(1891~1894)には
まだラフカディオ・ハーンであったわけで、ここでもへるん先生 と呼ばれていたことでしょう。
そのへるん先生が小泉八雲となるのは、1896年に日本に帰化したときでありましょうか。
ギリシア生まれでアイルランド育ち、
イングランドで教育を受け、やがて単身アメリカに渡る。
アメリカではシンシナティやニューオリンズで地方紙の記者をしたりしていたですが、
1890年に来日するのも本来的には特派員としてでありました。
しかしながら、きちんとした報酬が約束されているというよりも
売文業に近いのではと想像されるとなると、生活の安定のためには
日本で職を求めることになりますですね。
時は明治で、外国人をありがたがる(?)風潮に助けられもしたでしょう、
松江中学の英語教師として赴任することに。
そこでは、生涯の伴侶となる小泉セツと出会い、また出雲にも近い山陰の地で
日本の精神風土に触れることも多々あったことでしょう。
それだけに松江赴任とハーンの関係はとても大きい気がしますけれど、
実は松江にいたのは1年とちょっと。
寒さに耐えかね、温暖な気候の地への転任を願い、
これが叶って熊本の五高へとやってきたわけです。
こうした前半生を見る限り、はっきり言って不幸の連続のようにも思えるところながら、
日本に来てからはずいぶんと境遇が変わりましたですよね。
臨時雇いの新聞記者のような立場で日本にやって来たのが、
松江中学の英語教師「へるん先生」へと転身した後は、
五高、帝大と教師としてステップアップしていきました。
そして元々望んでいた「もの書きとして立つ」こともできたのですから、
なんとも大きな変転です。
が、こうした八雲の軌跡をざっくりたどってみますと、
(展示資料にも触れられていたと思いますが)何となく漱石の軌跡とかぶる部分がありますね。
教師としては、松江でなく松山の中学から五高へ、そして(留学を挟んで)帝大へ。
さらには「もの書きとして立つ」というところまでも。
あたかも八雲のあとをなぞっているかのようです。
このことに漱石自身がどの程度意識していたのかは不明ながら、
「二代目小泉にはなれそうもない…」とは語っていたそうでありますよ。
おっと、うっかりするとまた漱石の話になってしまうところですので、
へるん先生に話を戻しますが、五高赴任に際して、この家に住まうにあたり、
つけた注文というのが「神棚を取りつけること」だったそうな。
来日2年にも満たないうちに、この入れ込みようは?!
それも家の形だけ真似るんでなく、出勤する前には毎日この神棚に柏手を打っていたと。
ただ、書き物をするにはやはり机と椅子の方が勝手がよかったようですね。
光が長い時間入るからと南西の角に机を置いて、書斎にしていたということです。
へるん自身の中では、和洋それぞれを破綻なく使い分けていたのかもしれんなぁ…
てなことを思ったりした小泉八雲熊本旧居でありました。