さて熊本城 の天守閣へと至る道ですけれど、櫓を見て回って側面からアプローチするにしても
二様の石垣から見上げた方向に進むにしても、このようなところを通り抜けることになるのですね。


熊本城本丸御殿下


まるで坑道か何かのようですが、
実際にこのようなところが熊本城にはあってそれが模したということになりましょう。
両サイドが石垣の上に建物が乗っかっている体でして、この上が比較的最近再現、公開された本丸御殿。


それだけに「見て行ってほしい」という熊本城関係者の思いの現れか、
御殿内のそこここにガイド(ボランティア?)が立って説明したり、
「天井をご覧ください」などと案内しておりましたですよ。


熊本城本丸御殿内①


熊本城本丸御殿内②


熊本城本丸御殿内③


例によって携帯のカメラ機能ではこれが精一杯なわけですが、
明らかに戦闘用部分とは異なる御殿の機能が窺い知れるところではなかろうかと。


熊本城天守閣

と、そのような本丸御殿の目の前にはどどんと二重の天守閣が威容を誇っておりました。
ですが、小天守(よく見れば大天守も)の最上部は

「もしかしてアルミサッシ入ってる?」てなふうにも見えてしまう点で、

国宝にはなれない残念さが露わになっておりますなぁ。


なんでも元々の熊本城天守閣は明治に至って西南戦争の際、
迫りくる薩軍に対して政府の鎮台兵が立て篭っていたときに

不審火で焼け落ちてしまったのだそうな。

これが薩軍側のスパイの仕業とか、籠城側が背水の陣を布くためにとか、

あれこれは言われるものの、はっきりとはしないとか。


ただそんな火災の後に薩軍を迎えて、

籠城側の砦たる熊本城が堅固な要塞としての機能を存分に発揮し、
ついに落とすことのできなかった薩軍の大将・西郷隆盛は

「清正公にしてやられたようなもの…」とこぼしたとも伝わっているようです。


小天守入口


というところで、天守閣に登ってみることにしたわけですが、入口は小天守の側。
近づいてみますと、石垣を攀じ登ったとしても

そこで実に痛そうな仕掛けが待っているものだと気付かされますですね。いやはや。

熊本城天守閣からの眺め


天辺からの見下ろしてみれば、

そこはかって濠として満々と水を湛えていたものと想像されますが、
何とも濠が深いというのか、石垣が高いというのか…。

天守閣から見下ろす熊本城本丸御殿


目を転ずれば、さきほど内部のことに触れた本丸御殿も

また大きな建物であったのだなと思われ、
また別の方向にはもうひとつの天守閣?と思しき櫓が見えておりました。

熊本城宇土櫓


この櫓が「宇土櫓」というものでして、天守閣は焼け落ちてしまったものの、
創建当時の佇まいをそのまま残すものとして、これもまた国の重要文化財であるそうな。


それにしても「宇土櫓」との命名は?と思いますですね。
秀吉から肥後国の北半分が加藤清正に与えられたと同時に、
その南半分を与えられた小西行長が居城を構えたのが宇土の地でありますから。


何を読んでも、加藤清正と小西行長の仲の悪さは同じように出てくるのでして、
今回読んだ佐竹申伍版「加藤清正」には清正寄りの話があり、
以前読んだ、遠藤周作 がキリシタン大名・小西行長を描いた「鉄の首枷」では

行長寄りの話がありですが、歴史は単純ではありませんから、

まあ、どちらにも分があるということになりましょうか。


加藤清正/佐竹 申伍 鉄の首枷 小西行長伝 (中公文庫)/遠藤周作


とまれ、関ヶ原で三成側に加担した小西行長が敗走し斬首となると、

清正は行長の旧領も併せて肥後一国を治める大大名になるわけで、

この宇土櫓はかつての行長の居城・宇土城から移築したものとも言われていたのですね。


ですが、豪放磊落な清正としてはそんなねちっこいことにはイメージがあいませんし、
むしろ小西家に仕えた旧臣を召抱えて、この櫓の警護に当てたところから、
宇土櫓の名がついた…との謂われの方がすっきりするような。

熊本城頬当御門


てなあれこれを思いつつ、ざっくりと熊本城ひと回り、頬当御門を抜けて終了となるわけですが、

思いがけないほどに城内廻りで時間が経ってしまった…。
その気になって天守閣内の資料なんかにもたあんと目を向けるとすれば、
たっぷり1日かけてでも見て廻れるくらいのすんごいお城でありましたですよ。

熊本城石垣