昔、「リスト弾き」と言われたピアニストにジョルジュ・シフラという人がおりましたですね。
フランツ・リストの難曲をあれよと弾きこなしてしまう超絶技巧の持ち主ながら、
反面「その音楽性のほどは…」みたいな評価があったのではないかと。
こうなるとわざわざシフラの録音を聴いてみようと思うこともなく、
(技巧のほどを「どれどれ」と聴きにかかる方もおられたでしょうが)
それだけに何とも言えないところはありますけれど、
シフラというピアニストがどうよ?という以上に、そもリストの書いた音楽が
音楽性云々以前の問題に対処せざるを得ないものだったのかもですね。
前にも引用したことがありますが、
自身リストの「超絶技巧練習曲」を録音したこともあるピアニストのクラウディオ・アラウは
リストを弾くことに関して語った中で、こんな言葉を使っているのですね。
強い筋肉の耐久力と巨大なスパンを自分のものとする能力、そして肩から腕のすべてを使うことによって得られるトータルな自由(まさに指ではなく、身体全体から生まれるソノリティ)
これまでにも何度か「音楽は体育会系ではないか」的なことを言ったことがありますけれど、
さしずめリストを弾くということは強靭な肉体が必要で、そのためには過酷なトレーニングが
必要てなふうに思わせもするひと言ではなかろうかと。
とまれ、そうしたリストのピアノ曲を聴いてきたというお話であります。
アリス=紗良・オットのピアノ・リサイタル@杉並公会堂でありました。
リサイタルが始まるまではプログラムをおよそ意識しておらず、
何が演奏されるんだったかな…てなところへ一曲目、
ベートーヴェン の「テンペスト」ソナタが始まり、
ピアノ曲を余り知らない者にも耳馴染みのある第三楽章に至って「ふむふむ」と聴いていたのですね。
しかしながら、2曲目のJ.S.バッハ「幻想曲とフーガ イ短調BWV.944」での高速フーガ、
そして続くバッハの無伴奏パルティータをブゾーニが編曲した「シャコンヌ」とを聴くにつけ、
これらは後半に配されたリストの演奏に向けた準備体操なのだなと思ったですよ。
(もちろん、準備体操はフーガだけで、シャコンヌから本番とも言えますが)
そして、後半のリスト。
始まりこそ休憩後の指馴らし的にか、「愛の夢」の2番、3番でさらっと始まったですが、
最後に置かれた「パガニーニ大練習曲」全6曲で、ついに堰を切ったような奔流が!
あたかも鍵盤上で難易度の高いステップを踏み、
トリプル・アクセルをばしばし決めるがごとし。
そりゃあもう「お見事!」としか言いようがない。
そもベートーヴェンからして「音、でかいな」と思っていましたけれど、
ここへ来てそうした音響が「我が意を得たり」と響き渡ったわけです。
ともすると巨大な体躯のピアニストが「何だかピアノが可哀そう…」と思えるほどに
圧倒的な弾きようで迫ってくることがありますが、その点、この日の奏者は
長身ながら華奢ともいえる見目からすると、似合わぬ音の大きさとも。
それでも、決してピアノが可哀そうといったふうにまでは見えない(聴こえない)ところは
不思議でもあり、また音の個性でもあるのでしょうね。
というふうに、ひとしきり感心はするんですけれど、
冒頭あたりに記したことを振り返りつつ思うところは、
「はて、いい音楽、素敵な音楽、くくっとくる音楽でありやなしや」との惑い。
必ずしも奏者のせいばかりではないのかもとは、先に触れたとおりですけれど、
アンコールで弾かれたシューマン やショパンの小品までが
濃厚なリスト風味に思えてしまったとなると、どうも…。
あまりピアノを聴かないだけに「リスト風味」が刷り込まれてしまっただけで、
「アリス=紗良・オットさんは(若年のわりには?)とってもすんごいピアニストなのだ」なのかも。
もしかしたら、それが分かるほどの聴き上手ではないことも否定できないところだけに、
(何しろ満場の拍手でありましたですからねえ…)
超絶技巧と音楽とのバランスの中で聴くことの難しさ?を感じたりしたものでありますよ。