静岡浅間神社 の楼門や大拝殿の煌びやかさに比べると、
車道沿いの門は何の変哲もないようなふうですけれど、
この門前から真っ直ぐに駿府城の方へ伸びている通りが浅間通りであります。


静岡浅間神社門前


昔から「門前市をなす」ところであったのか、今は商店街になっていて、
その歩道を覆う庇部分にちょっと唐突な感のある貼り紙がありました。


「amazing THAILAND」@静岡浅間通り商店街


「amazing THAILAND」
歩を進めていくと同じものがたびたび目につき、
さらにはタイの観光写真を並べたようなものも見られたのですね。


って、あたかも何もしらずに驚いたかのように言ってますが、
実は商店街の中ほどくらいでしょうか、今では胸像となって商店街を見守っている
この人との関わりなのでありますよ。


山田長政像


まあ、パッと見たところでは、
静岡の中小企業がタイに工場を作って大成功したときの社長…みたいに思えますが、
タイのアユタヤ王朝で重用されたという、グローバル人材の先駆け・山田長政であります。


ガイドブックによっては山田長政屋敷跡の石碑があると書かれているんですが、
今はこの胸像だけになったのでしょうか、他には見当たりませんでした。


とまれ、事前の予習で読んだ本によりますと、
山田長政の出身地にはいくつか説があって、駿河であるとする説のほか、
尾張、伊勢、長崎というものがあるようです。


山田長政―知られざる実像/小和田 哲男


史実として確定するには史料が少ないのが山田長政のようでして、
その分、断片的な材料から人物像を勝手に想像しやすいところがあるのだそうですよ。


ですから、先に(ちと揶揄的に)グローバル人材などという言葉を使いましたですが、
山田長政が大きくもてはやされた時期があって、いわゆる大東亜戦争の頃なのだとか。
「八紘一宇」を掲げてアジアはみな仲間的な謳い文句で東南アジアに出張っていく際に、
タイ王朝での活躍著しかった山田長政は鑑のような存在として語られてしまったと。


また一方で、遠藤周作の「王国への道」では
キリシタンであるペドロ岐部との対比させる形で山田長政を描いたのも
史実のつかみにくさ故に自由な想像力を働かせることができるからでもありましょう。
(個人的にはこの小説は面白いと思っていますので、否定的な意味合いはないです、為念)


王国への道―山田長政 (新潮文庫)/遠藤 周作


と、分からないことの多い山田長政ですけれど、
素人が推測するのもなんですが、やっぱり駿府説が一番もっともらしいのではないかと。


タイに渡って地位を得た後の1626年、

長政は「戦艦図絵馬」を静岡浅間神社に奉納しているのでして、
いかに駿河国総社であろうと、尾張や伊勢、はたまた長崎出身の人物が

この神社に絵馬を奉納するとはおよそ理由がないように思えます。


ですが、これが駿府出身、しかも浅間通りで生れたとなれば
「おせんげんさん」に願を掛けるのは極めて自然なことでしょうから。

異国にあっても願を掛けるに思い出すのは、故郷の神社であった…これはすっきりします。


長政が奉納した「戦艦図絵馬」は神社の火災で焼失してますが、
これを模写していた絵が浅間神社に残されており、見られるのかなと思ったですが、
どうやらいつでも見られるものではなかったらしい。
(静岡市文化財資料館では、別の長政ゆかりのものが見られましたけれど)


山田長政奉納「戦艦図絵馬」


それから、そもそも長政が何故海外に出ようと思ったかという点では
やはり(前にも書きましたように)当時の駿府が「外交の檜舞台」であった、
外国や外国人への窓が開かれた場所であった(この点では長崎説が上回るかもですが)

てなことも関わっているやに思われますですね。


ところで、浅間通り商店街には

こんな大名時計らしきものもモニュメントとして置かれていました。


大名時計モニュメント@静岡浅間通り商店街


久能山東照宮にはスペイン王フェリペ3世から徳川家康に贈られたとされる
機械式時計があるそうですけれど、こうした西洋発の機械がこうしたところにあるというのも
駿府が外国への開かれた窓を持っていたというよすがだったりするのでありましょうか。