静岡県を昔は駿河国と言っていたわけで、

県庁所在地たる静岡市は駿府と呼ばれていましたですね。


これは駿河国の府中(国府が置かれた中心地の意)、駿河府中を縮めて駿府としたのでしょう。
甲斐国に甲府があり、周防国に防府があり…てなことと同じなのではなかろうかと。


ところが、今でも山梨県には甲府があり、

山口県には(県庁所在地ではありませんが)防府があるのに、こちらは静岡県静岡市…

となれば、さぞ静岡という地名にはいわれがあろうと思ったりしたものです。


と、その漠たる疑問は、静岡市役所前でやおら解決に至りました。
元の駿府町奉行所 転じて駿府藩藩庁となっていた場所に立てられた「静岡の由来」碑、
これでもって静岡の名の起こりを見ておくとしましょう。


「静岡の由来」碑
明治二年(1869)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された。重臣の間では賤機山(しずはたやま)にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが、藩学校頭取の向山黄村先生は時世を思い土地柄を考えて、静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決、同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた…

何と静岡という地名のもとは賤ヶ丘だったのですなあ。
「さきたま」と言われていたものが埼玉県になったようなふうでしょうか。
もっとも賤ヶ丘がそもそも賤機山に由来するとなれば、それこそが肝心な点でありますね。


賤機山は静岡駅からは北西、駿府城公園の方向に、
駅から公園までの距離をもうひと伸ばししたくらいの先のところ。


何でも3000m級の高峰が連なる南アルプス(赤石山脈)の最南端部分に当たるそうな…
というと高い山を想像されるかもですが、標高は171mとのことですから、静岡市の里山ですな。


山の南部には6世紀頃の豪族の墳墓とされる賤機山古墳の墳丘があり、
戦国の世には山城が築かれていたそうでもありますから、駿府に代わるネーミングとして
歴史的由緒の点では文句の付けようのないものであったのかもしれません。


で、こうしたことを知ったからには、
雰囲気だけでもと賤機山古墳へと足を伸ばしてみたのでありますよ。


行きは取り敢えず静岡駅前からバスで、赤鳥居まで。
ですが、このバス停、「あかとりい」かと思えば「あかどりい」というらしい。


バス車内のアナウンスで音声だけ聞いていると、

赤いクローン羊(赤ドリー)かと思ってしまいますが、
このあたりにも微妙な地域感が感じられるところと言えましょうか。


赤鳥居


こうしたたどり着いた赤鳥居、
賤機山古墳はこれを潜って大きな神社の神域からアプローチするようすですので、
まずは、案内板で確認を。


賤機山古墳案内図


左手から廻り込むように登っていった先であるなと概略をつかんだところで、

すぐに登りにかかります。
案内板が少々くたびれ気味のわりには、石段は新しいような。
整備されたばかりかもしれませんですね。


賤機山古墳への道


これを登りつめると、余りにもいかにもな土の盛り上がりが目の前に。
解説によれば「直径約32m、高さ約7mの円墳」だそうでありますよ。


賤機山古墳の円墳墳丘


作り方としては、後に石室となる部分とこれに通ずる通路を残して
あとは小山を作るように土を盛り上げていき、だいたいの形を整えるわけですね。


次に、石室・通路部分の壁面を石積みで補強すると同時に
石室の上部をでっかい石で塞ぐんですが、この屋根のように被せる石は
何と!大きなもので14トンもあるのだそうですよ。

6~7世紀には重機もないですのにねえ。


その後は大石の上に土を被せて完成かと思いきや、
雨漏り対策として粘土を貼り込み、その上で盛り土をするのだとか。
昔の人も考えたものです。


このようにして出来上がった墳丘の中、石室を覗いてみるとこんなふうに見えるのですが、
どうやらセンサーか何かで入口近くに行くと内部に灯りが点るようになっているようですね。

覗き見る気分は、インディアナ・ジョーンズさながらか。


賤機山古墳の石室


この中に見える石棺は家形石棺というタイプとのことですけれど、
蓋の左右、そして手前側に突起が見えますですね。


こうした突起が全部で8カ所もあるのは全国的にも珍しいのだとか。
「蓋と身との合わせ目には、ベンガラ(鉄の赤色酸化物)が塗られて」いたとされることも併せ、
古代、この辺りの豪族は装飾性を意識した人たちだったのかもしれませんですね。


と、しばし古代ロマンに思いを馳せた後は墳丘の裏手に廻ってみて、
別経路で下りて行こうと思いましたら、目の前に現れたのが百段階段と呼ばれる大階段。

百段階段を見降ろす


こちらから登ってこなくてよかったぁと思いましたですよ。

ゆるゆる下り切って振り返ってみますと、ご神職の方が静々と降りてこられました。


百段階段を見上げる



古代人が有力者の墳墓の地とした場所は、後の人々から見ても
神様の領域と思えるようなところであったということでありましょうか。


賤機山とはかようなところでありました…で、お終いにするはずでしたが、
静岡なる地名の由来が賤機山にあるのは分かったとして、
そも何ゆえに駿府を静岡に改称せねばならなかったのかをお留守にしとりました。


藩庁での改称議論があった頃には、

前将軍・徳川慶喜 はすでに駿府に移ってきていたわけですが、
その謹慎の場所が駿府、駿河府中、府中=不忠のままとしていては
新政府から難癖つけられるもとになりかねないという配慮があったようで。


御先祖のことながら徳川家康と方広寺の鐘銘の一件みたいなこともありましたしねえ。

(もっとも立場は全く逆ですが)


ということで、「今は昔、駿府というところありけり」というお話でありました。