新橋に出たついでに、旧新橋停車場鉄道歴史展示室を覗いてみました。
「富士山と鉄道」という企画展を開催中だものですから。
世界文化遺産に富士山が登録されて1周年記念ということで、
「富士山の文化史における交通史の観点」からアプローチするてなことでありましたですよ。
展示室内中央に大きくぶら下げられているのは、有名な「絹本著色富士曼荼羅図」(複製)。
室町時代の作とされるこの曼陀羅図は、富士が古くから信仰の対象であり、
また修行にも似た苦難を経て頂上を目指す人たちがいたことを偲ばせてくれますですね。
最下部中央に三保の松原(おそらく)、そしてその左手には関が設けられていることから
清見関と清見寺
(おそらく)が描かれているものと思われますので、その頃に富士を描く、
富士を眺める、富士に登るとすると、それは西側(つまり東下りの道筋)からだったのでしょう。
ですから、登山口も富士宮からで、
段階的に神様仏様に祈願を繰り返しつつ登っていったのでしょう。
ちなみに上の曼陀羅図の頂上あたりにも描かれていますけれど、
お寺さんでは富士を大日如来と見ているのですが、
神社の側では木花咲耶姫ということになっておるそうな。
そこで「果たして富士山は男なのか、女なのか」という疑問が生じ、
これでは信徒に説明がつかん…と、真剣に悩んでしまったお坊様がいたそうでありますよ。
とまれ、江戸期になると「富士講」が大いに活況を呈することになりますが、
富士講の人気を爆発させた行者に食行身禄という方がおりまして、
何と!吉田口をして富士登山の本道として定めたそうなのですね。
元より富士山は大きな山で登山口はいくつかあるものの、
古くからの伝統に基づくのは何と言っても西側にある富士宮口であるところながら、
こうしたことから吉田口は江戸からの富士講一行で大賑わい、
麓の町にも御師がたくさんという状況に。
これが、江戸から明治になって鉄道が走るようになると、中央本線の大月駅を起点として
富士山麓電気鉄道(最初は馬車鉄道、現在の富士急行)ができることになるのですから、
富士山人気は衰えることがないですね。
こうした一定需要があったことももちろんながら、供給側ももはや信仰の対象というより
観光地としての富士山周辺の売り込みはやっきだったようす。
往復割引切符や周遊きっぷ、特別な車両、おまけ付きサービスなどなどを展開したことが、
数々の展示から見てとれました。
それにしても、富士急行線の富士吉田駅(現・富士山駅というらしい)から
終着・河口湖駅へはスイッチバックして行くことになってますけれど、
本来の案では富士吉田から山中湖方面に抜けることを想定して線路を敷いたために
こうなっておるのだとか。計画倒れですけれどね。
また河口湖から先の部分として富士五湖沿いに進んで、
現在のJR身延線、下部温泉駅までつなく計画もあったそうな。
これは身延線の前身である富士身延鉄道と
富士山麓電気鉄道とが同じ経営者のもとにあったかららしい。
この方は堀内良平という甲州財閥のひとりだそうで、
東京遊覧乗合自動車=現・はとバスも経営してたと言いますから、
ちょっとした観光というところでしょうか。
山中湖までの路線と同様に、身延線とつなぐというのもやはり計画倒れで終わったものの、
もしもそういう路線ができていたなら、富士周辺の観光もバリエーション豊かでしたでしょう。
あまり車に頼らない者としては残念でありますなあ。
…とまあ、あれこれの展示を興味深く見て回っていたですが、
ふと気付いてみれば、どうも内容がJR東日本
に偏っているような…。
てなことを言うと、またこないだの
「どうも旅へと誘うキャンペーンのデスティネーションが云々」という話とおなじように
なってしまいそうながら、鉄道歴史展示室を運営しているのは東日本鉄道文化財団ですし、
仕方ないですかね。
ただ御殿場線ルートや身延線ルート(いずれもJR東海管内)によるアプローチの紹介とか、
あるいは西側から、それこそ東下りのように富士山へとやってくる人たちへのキャンペーンなどが
あったのか、なかったのかとか、その辺りも含めて展示してもらいたかったなあとは
思いましたですよ。
ところで、乗りものには「富士」という名称がよぉく使われてきていたのですねえ。
今はもう走っていないブルートレインで、東京から西鹿児島(現・鹿児島中央)までの
最長距離を走っていたのが「富士」でありました。
これは、1929年(昭和4年)に東京~下関間を走る特急のネーミングを公募したところ、
1位が「富士」であったところから名付けられたのだとか。
そして、日本初のリアエンジン・バス(ボンネット・バスでないということですね)も
「ふじ号」と命名されたそうで、1949年から1956年にかけて都バスとして走り回っていようです。
船の方でも、1965年に建造された南極観測船は「ふじ」でしたし、
日本のクルーズ客船のはしりとして1989年に就航したのも「ふじ丸」でありましたですね。
ついでに、日本に導入された初めてのジェット旅客機であるDC-8の1番機が「FUJI」。
機首部分だけ保存されていたのが、羽田のスカイミュージアム(JALの施設)で公開されると
報道されたのは、ついこの間だったような。
鉄道に限らず、乗りものと富士山はかくも関わり深いものだったのですなぁ。