先の薩埵越紀行 に際して読んだ「そろそろ旅に 」でもって、
「東海道中膝栗毛」の作者である十返舎一九は駿府で生まれ育ったと知ったものですから、
きっと関わりあるものがどこぞにあろうな…と思ったわけですね。


そうしたら案の定でありまして、
静岡駅前から北西に長く続くショッピング・ストリートたる呉服町通りに並行して
一、二本南側の通りとなりましょうか、両替町という通りをずんずんと進みますと
十返舎一九ゆかりの場所にたどりつく…のですが、その前に。


途中で、やおら歩道に突き出した碑が見えきますけれど、
近づいてみれば、これには「駿府銀座発祥の地」と記されています。


「駿府銀座発祥の地」碑


「○○銀座」なんつう商店街の通称はそこかしこにあるわけでして、
両親の住まっている近所にも、よくTVで取り上げられたりして
その名が日本中に聞こえた「砂町銀座」(とは言い過ぎか)という商店街があるし…と、
最初は思ったですよ。


そして、昔は呉服町よりも両替町の方が栄えていたということなのかな…
とも思いつつ解説を見れば、いやはや何と誤った方向へ想像を巡らせていたことか。

慶長十七年(1612年)駿府の銀座は江戸に移された。今日の東京銀座のルーツは静岡にある。大御所四百年祭を記念し建立する。

江戸期に貨幣の鋳造やら金銀売買の場であった金座、銀座のことなのでありました。
それにしても、江戸幕府が1603年に始まってすっかり江戸が中心地になったと思っていたのも
大きな間違いであったようで、将軍職は秀忠に譲って家康は駿府に引っ込んだ…のでなく、
駿府で大御所政治を始めたということなんですなあ。


でもって、江戸・駿府の二元政治というよりは駿府の比重が高いような。
ここに銀座が置かれていて、後に江戸に移される(移転するまで江戸にはない)点をとっても
そうしたことが偲ばれますですね。


大御所時代の駿府は江戸と引けを取らない人口を擁していたとも聞きますから、
繁栄を謳歌した時代だったのでしょうけれど、
時は移って今風の建物が並ぶ半面賑わいも薄れた両替町をも少し進みますと、
「十返舎一九生家跡伝承地」碑にたどり着きました。


「十返舎一九生家跡伝承地」碑


うっかりすると見落としてしまう地味さで立っておりますが、
「生家跡伝承地」、生家の跡だと言い伝えられるけど、確証はない…のが、
弱みになっているのやもしれませんですなぁ。
もっとも併設の解説板には「この地で生まれた」と断定口調ですけれど。


父は駿府町奉行所の同心で、一応(?)侍ですから、
長男の一九は当然に家督を継ぐ立場でありながら、これを弟に譲り、
江戸で戯作者となる道を選んだ。


それなりの自信、気概が無いと食っていけるものやら…と思ってしまいそうですけれど、
今では「東海道中膝栗毛」の一発屋というイメージ(かくいう自分もそうでしたが)ながら、
「洒落本・滑稽本・合巻・読本・人情本・咄本等に筆をとり、また、

狂歌集・往来物等も多数出版した」ということで、

なんでも「文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家」でもあったそうな。
(一九の先輩格、山東京伝は煙草屋を営むなど専業作家はいかなったようです)


とはいえ、若い頃には駿府町奉行所にも出仕して、
その頃駿府町奉行であった小田切直年(後に大阪の奉行に転ず)の面識を得たことが
一九の大阪行きと浄瑠璃作者の道を開くことに繋がったとなれば、
ここで生れたことも奉行所に通ったことも、後の一九誕生に必要なことだったのでしょう。


ちなみに若き一九が通勤?した駿府町奉行所は今の静岡市役所のところだそうで、
やはり碑が建てられておりました。


「駿府町奉行所址」碑


そして、さらに密かに「どこかにはきっとあるだろうな」と思っていたものがありまして、
これは本当にふいに出くわしたのですけれど、

駿府城二ノ丸堀に差し掛かったときに「お!あれは?!」と。
近寄って「やっぱりな」とにんまりしてしまいましたですよ。


作者の一九のみならず、「膝栗毛」の弥次さんは駿府の出、

喜多さんは江尻(清水)の出という設定、
江戸から東海道を上るとなれば当然に府中宿は通るわけで、やっぱりあった弥次喜多の像。


弥次喜多像@府中宿


途中の宿場宿場で何かとトラブルに巻き込まれる弥次喜多なだけに、
府中宿に入った頃には貧乏旅行も極まれり。


伝馬町に宿をとったものの、弥次さんはひとり旧知を訪ねて金策に走る。

故郷なればこその援助を得られたのか、安倍川へと歩を進めていけば、
川の渡し賃が「高い、まけろ!」でひと悶着。


ごうごうと流れる川を人足の肩車に乗って無事に終えると、
感心した弥次さんは駄賃に酒代まではずんでやりますが、振り返りみる川はどうにも浅い。
「野郎、わざわざ深いところを渡しやがったな」と思っても後の祭りでありました…。


よくまあ、宿場宿場で毎度起こるトラブルの話を思い付いたものだと思いますが、
世の中に知られた笑い話や狂言等からも借りてきた話も多いのだそうで。
ですが、辞世と言われる歌を見ても、洒落に頭の回る人だったのだろうとは想像されますね。

この世をばどりゃおいとまに線香の煙と共にはい左様なら

「線香」の「せん」は前から続いて「おいとまにせん」となり、
「はい左様なら」の「はい」は線香の「灰」に通ずる。
狂歌集も出していたという一九ならでは、なのではなかろうかと。


これまた予習で「村松友視の東海道中膝栗毛」をさくっと読んでおきましたけれど、
江戸期の戯作なら何とかそのままでも読めるかも。
機会があれば、また原典に臨んでみようかと思うところでありますよ。


村松友視の東海道中膝栗毛 (シリーズ・古典)/村松 友視