薩埵峠 からの下りは、みかん畑の中をどんどん降りて行くふう。
途中ではまだ富士山がみかんの木越しに眺められましたけれど、
もはや裾野が隠れてしまってますので、だいぶ下ってきたなと知れるわけです。

みかん畑越しの富士山


やがて、山道らしきところを歩き終え、
街中へ入るという分岐点にまた一里塚跡がありました。
ここから先が間の宿(あいのしゅく)となるわけですね。


薩埵峠登り口の一里塚


ところで、この倉沢という間の宿ですけれど、
由比宿興津宿 の間におかれて、往時は十軒ほどの茶屋があり、
これから薩埵越えをする人も下りてきた人もここでひと息ついて先へ向かったとか。

もちろん大名行列も休憩することがあったのでしょう、
宿所ではなくとも休憩するための本陣、脇本陣があったそうですね。

倉沢間の宿本陣 倉沢間の宿脇本陣


上の脇本陣・柏屋は明治天皇行幸の際の休憩所であったことが看板に書かれてますが、
もうひとつの脇本陣・望嶽亭藤屋には「山岡鉄舟ゆかりの家」との看板が。

山岡鉄舟ゆかりの家@倉沢間の宿


はて、このゆかりは何ぞ?と思えば、鉄舟幕末の駿河行きに関わる話だそうで。


官軍を率いて駿府城に陣取った西郷隆盛のもとに、
江戸を戦火に晒さないことを画策する勝海舟が山岡鉄舟を使者に立てたのですね。


が、駿府に近づくにつれてだんだんと周りは官軍だらけになってくる。
そうしたときに、駿府への手引きをしたのが裏街道に詳しい?清水次郎長であったわけですが、
清水に至る以前にもこのようなエピソードがあったそうな。

官軍に追われた山岡鉄舟を望嶽亭の主人が蔵屋敷で漁師に変装させ、隠し階段から海岸へ逃がし、船で清水まで送り、清水の次郎長にその身柄を託した。

なるほど、そういうことなら十分「ゆかり」はありますですね。
と、こうした西倉沢地区を後にして、しばし道なりに進んでいきますと
東倉沢地区に入り、やがて明らかにただの民家でない、いかにも観光要素っぽい建物に到着。
ここが東海道名主の館「小池邸」でありました。

東海道名主の館「小池邸」


これまでちゃんとした認識に至ってませんでしたけれど、
説明書きによりますと、名主というのはなかなか大変な仕事のようですね。

「年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていた。

村の中の金持ちとして、のうのうとしていたわけではなさそうです。
ちなみに建物としては明治のものだそうですが、屋内の様子はこんな感じです。
何だか建て替え前の母親の実家を思い出すような…。

小池邸内


小池邸の三和土 小池邸の囲炉裏


…ということで、間の宿も通り抜け、再び由比駅に戻ってきました。
ホームからは前日には見えなかった富士が真っ白な頭を少しだけ覗かせていましたけれど、
何とはなし名残りを惜しんでくれているように(勝手に)思いながら、
東海道線で静岡駅へと向かったのでありますよ。


由比駅から富士山の頭だけ