修善寺温泉は桂川の渓流に沿って並ぶ宿が本来でしょうから、
周囲の山に遮られて富士を望むことは叶いませんけれど、
今回はそんな温泉街から少々離れた小高い丘の上だったものですから
(温泉をどこから引いてるんだろう…という疑問はさておいて)
眺めはまずまず、富士のお山も宿からならばしっかりと望むことができました。


修善寺の高台より望む富士


そして、温泉街からこの高台へと上っていく途中にあるのが修善寺虹の郷という施設。
元は修善寺公園という、ただただ自然を親しむためのものであったところへ
あれこれの娯楽要素を付け加えてできたもののようです。


テーマパークと言えないこともないですが、伊豆市振興公社という財団の運営だけに
力を入れ過ぎてあざとくなったり、かといってどうせ採算とれないからと投げやりになったりの
どちらでもなく、どちらでもない中途半端さが個性のような場所とも言えましょうか。


園内は広大らしいのですが、そのところどころに
イギリス村、カナダ村、フェアリーガーデンと配されて、こりゃあ洋物狙いか?と思うと、
フェアリーガーデンに隣り合って日本庭園、そして伊豆の村、匠の村と並ぶとあっては
なかなかのトンデモ・パークぶりを想像するところではなかろうかと。


それでもまずは入園ゲートのところからしてすでにその様相を見せている
イギリス村がキャッチーな存在ではありましょう。


イギリス村@修善寺虹の郷


入口から続くメインストリートの周囲はかなり作り込んであって、
チューダー洋式らしき建物の街並みはストラトフォード・アポン・エイヴォンを思い出したり、
ごちゃごちゃっとカワイイものが山盛りされた店々には

ハワイのキングスヴィレッジを思い出したり、
小さな子供連れ家族のママさん狙いなのかもしれませんですねえ。


そして、子供の方はと言えば、イギリス村の中央に位置する駅から出発する

ミニSLのロムニー鉄道に目が釘付けではないかと。


ロムニー鉄道@修善寺虹の郷


ミニSLと言っても(確かに15インチゲージの線路は「大丈夫?」というくらいの幅ですが)、
写真のようにしっかりと人を乗せた客車を何両も引いていく力持ち…
と、なんだか機関車トーマスのように擬人化して語りそうになってしまいますですね。


ナローゲージのロムニー鉄道

で、このロムニー鉄道に乗車することしばし、トンネルやら鉄橋やら、
子供たちに喜ばれるよう設えたものを通り過ぎ、

たどり着くのは虹の郷で一番奥まったカナダ村の駅。


しかしまあ、ミニとはいえ本物のSL(イギリスあたりにはこうした動態保存がままありますね)で、
考えてみれば(恥ずかしながら?)本当本物のSLに乗ったのはこれが初めてではないですかね…。


それはともかく、たどり着いたカナダ村はコロニアル風な建物と街の様子が一新されますが、
やはりカワイイもの盛りだくさんな店だったりするのですね。


カナダ村ネルソンホール@修善寺虹の郷


その中にシティホール的存在でしょうか、ネルソンホールという建物は
カレイドスコープミュージアムになっておりましたですよ。


なんでもカレイドスコープの語源はギリシア語だそうで、
(「Kalos(美しい)eldos(形)skopeo(見る)」⇒「Kaleidoscope」)
以前からどうも「カレイド」の部分が英語っぽくないよねぇ…と思ってたですよ。


ちなみに日本に伝来したのは江戸時代。
といっても、イギリスで発明されて間もなく入ってきたということですから、
決して古くからあるものではなかったのですね。


日本では、江戸から明治にかけて「更紗眼鏡」、「百色眼鏡」、「錦眼鏡」などと
いろいろに呼ばれていた中で、「万華鏡」の呼び名も見当たるらしいですが、
文字は同じでも「ばんかきょう」と呼んでいたそうな。

時代を感じる音ではありませんか。


館内には様々な仕組みの万華鏡が展示されていましたけれど、
ちょっと携帯カメラくんに覗かせてみたところ、このような映像でありました。


カレイドスコープを覗いてみれば…


さて、カナダ村を後にして入口であるイギリス村へと歩いて戻る道々は、

フェアリーガーデン、あるいは日本庭園と時季が時季なら花盛りなはずなんですが、

さすがに冬場にこのあたり見るべき姿のなくの印象。


いささか足早に進むうちに、そもこの虹の郷に足を止めた目的地にようやっと到着。
その名も、修善寺夏目漱石 記念館であります。


修善寺夏目漱石記念館


先の伊香保榛名紀行の折にも、伊香保温泉に漱石が浸かった ことに触れたと思いますが、
昔々はそれこそ虹の郷のような行楽施設がありませんから、
温泉(そのもの)というのが行楽という場合の大きなひとつであったことでしょう。


漱石よりは数年若い田山花袋には「温泉めぐり」という紀行文というかガイド本のようなのがあり、
読んでみると、秘湯めぐりの会会長でもあろうか?てはふうにいろんなところを訪ね歩いてます。


そこまででなくとも、漱石は1910年(明治43年)の夏、のんびりゆったりを目的に修善寺を訪れ、
それこそ「草枕」の主人公のような過ごし方をしようと思ったのかもしれません。

が、あいにくと胃潰瘍が酷くなり、人事不省という事態にもなったのだとか。


しかし、だんだんと気候が穏やかになるにつれて快方にも向かったようで、
10月には修善寺を離れたとのことですが、

その一度きりの逗留となった温泉旅館が建て替えられる折、
漱石の使った、本来は二階にあった部屋をここに移築したのだということなんですね。


元々ひと棟の建物というわけではありませんのでこぢんまりとした記念館ですけれど、
元気を取り戻すにつけ俳句を捻るようにもなっていったのでしょう、
そうしたことを偲ぶ品々が展示されておりましたですよ。


この句も、生死の淵を彷徨った後、
闘病のうちにいつのまにか秋になってることを思って詠んだのでありましょうね。

生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉