…と、修禅寺 と鎌倉幕府との所縁に触れたところで、
修禅寺に幽閉されたという鎌倉幕府二代将軍・源頼家は程なく死去、
その墓所を訪ねに参ったのでありました。


修禅寺からは桂川を挟んで向かい合わせというところでしょうか、
ちょっとばかりの登りを経て、修善寺の賑わいから頭一つ抜け出たところに
墓所はひっそりと置かれておりました(もっとも、観光客は次々に来ますが…)。


源頼家之墓所?


で、お墓はこんな感じ(上の写真)ですと言いたいところながら、
その時は脇にあった解説板をよく読んでおらなかった。
このことを書くにあたって写真に撮っておいた解説板を改めて読んでみますと、
このような記載が。

この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500周忌にあたって、時の修禅寺住職筏山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。

へ?正面にどっかと写って(撮った方は満足してしまって)いるものは、
頼家500回忌の供養塔なの?お墓ではなかったのか…。


本当のお墓は「裏側にある2基の小さな五輪石塔」とありますので、
も一度写真をよっく見てみますと、おお、これか!と。


これぞ頼家墓所


訪ねた時に手を合わせたりしたその対象ははっきり言って供養塔だったことになりますが、
写真に写っているということは視野には入っていたわけで、

それが分かっただけでもまあいいかと。


ただ、よく考えるとこういうことはよくあって、実は後々まで気付いてないことがあるやも。
今回は後から分かっただけましですけれど、何やら仁和寺の法師になった心地ぞする…

でありますよ(笑)。


と、墓所詣でを茶化してばかりではなんですので、墓所の隣の建物に目を転じることに。
こちらは指月殿と言いまして、何でも伊豆に現存する木造建築では最古のものということです。


指月殿


頼家を結果的に早死に追いやったのは母・政子の一族である北条氏と言えましょうけれど、
この争いでは北条氏側で立ちまわったともいわれる母・政子にしてみれば
幽閉まではともかくも、我が子が23歳で亡くなってしまったことには嘆きを隠せなかったのか、
この指月殿は頼家の菩提を弔うために北条政子が建てたものであると言います。


本尊は釈迦如来坐像とのことですが、このお釈迦さまが実は珍しいものなのだそうで。
如来像は(薬壺を手にしている薬師如来を除いて)「持物(じぶつ)」は無いのが本来ながら、
ここのお釈迦さまは「右手に蓮の花を持っているのが特徴」なのだそうです。


いい歳をして仏像にはちいとも詳しくないですが、
こうしたちょっとした巡り合わせが知識を積み重ねていくのでありますなぁ。


ところで、幽閉された頼家は程なく死去…と先ほど書きましたけれど、
真相は母・政子の父、頼家にとって祖父にあたる北条時政によって、
風呂に入っているときに暗殺された…のだとか。


入浴中というのが何とも温泉湧き出る修善寺ならではのような気もしますが、
確か(時代は下りますが)太田道灌が暗殺されたのも風呂場だったことを考えると、
いかにも無防備な風呂場への襲撃は事が成就しやすいものだったでしょう。


もっとも丸腰はおろか丸裸(かもしれない)相手に斬りつけるとは、
武士のプライドも何もかなぐり捨てた所為にも思われますですね。


とまあ、殺伐とした話をしてきましたですが、
指月殿から桂川沿いの繁華な辺りに戻ってきますと

「饅頭総本山 源楽」というお店がありまして、
ひと休みにとパクついた「源楽胡麻饅頭」、これがですね、うまいんですわ。


皮も餡も真っ黒(竹炭を使っている由)で、
ごま風味のきいた味わいは和菓子敬遠組にも恰好のお茶受けと思われますですよ。


和菓子はどうも…という方にお試しいただきたところですし、
元来個人的にもあんまり饅頭に手を出さない方ながら、
これなら「まんじゅうこわい」と言ってしまうかも(笑)と思ったものでありました。