やおら伊豆富士見紀行 に戻りますが、
伊豆長岡温泉から修善寺温泉へ西伊豆の海岸線を経由して、
ようやっとたどり着いたというところから。
直接移動していたら、あっという間なのですけどね。
しかしまあ、たどり着いてみた修善寺温泉ですけれど、
やはりそれなりの人出がありましたですねえ。
これまで見てきたところでは、
とても(成人の日絡みの)三連休とは思われないのんびりした空気が漂っていたですが、
さすがに修善寺の知名度の高さということになりましょうか。
広重が残した「六十余州名所図会」にも「修禅寺湯治場」なる1枚がありますし。
温泉街を流れる桂川には「独鈷の湯」といって、
修善寺が弘法大師ゆかりの地であることを窺わせる場所がありますけれど、
ここも足湯に浸かる人たちでいっぱい。
ところでこの「独鈷の湯」、
桂川に来た弘法大師が独鈷(密教で使う仏具ですな)で岩を打ったところ、湯が湧きだした…
ということで如何にも霊験あらたかな気になってしまうお湯なだけに、
たくさんの人が足湯にしている現実があるものの、
観光協会などのオフィシャルな?案内を見ても足湯とは出ていない…。
昔々は入浴できるようになっていたですが、今は法律上の位置付けも浴場ではなく、
ましてや非常にオープンな作りで衆目の集まる場所なだけに今や全身浴に及ぶとすれば、
確信的愉快犯くらいなものでしょう。
ですが、それほどの由緒あるお湯ならばせめて足湯にでもと誰かが考えて、
「足湯って言ってないってば!」との位置付けはともかく
「赤信号みんなで渡れば…」的足湯となっているのかも。
そんな知ってか知らずか独鈷の湯で温まっている人々に遠い一瞥を投げた後、
こちらもかなりの由緒を持つ修禅寺へと足を運んだのでありました。
やはり弘法大師の開基になりますが、平安時代初期(807年)のことだそうです。
南北朝・室町の時代には戦禍や火災などもあって、寺は荒れ果てたようですが、
堀越公方
を討って韮山城主となった(後の)北条早雲が再興し、現在に至っているのだとか。
宝物館には源氏ゆかりの品もありましたけれど、
目を引いたのはやはり北条早雲関係でしょうか。
駿府へと流れついた伊勢新九郎は
坂東武者たちの睨みあい、小競り合いの間隙を突いて伊豆を切り取り、
相模を手中に収め…と、いかにも戦国の梟雄たるところの窺われる早雲ですが、
ここに収められた肖像画の何と貧相なこと。
言葉は悪いですが、何ともうらぶれた爺にしか見えない。
いかに老いたりとはいえ、先のイメージとはあまりに結びつかないことに唖然としたのですよ。
もっとも、歴史上の人物の肖像画に裏切られるのは武田信玄なんかもそうですし、
過剰にイメージを膨らませてしまう方に難があるのでしょうけれど。
また、早雲が修禅寺に対して寺領三十五石を寄進するとした「寄進状」も
展示されてましたですね。1499年のものだそうです。
概して僧形の印象ばかりの早雲ですけれど、
年齢には異説があるものですから一概に若い頃に出家したとは言えないものの、
それでも堀越御所を急襲する以前のようですから、
戦国大名として面目躍如たる動きを見せる前ということに。
ですから、度重なる戦乱に老いて無常を感じ仏門に…ということでもなさそうで、
もしかすると先の寄進状ではありませんが、意外にも?仏に帰依する人であったのかもですね。
また、時代は遡って鎌倉の世に戻りますが、
修禅寺は鎌倉幕府二代将軍・源頼家(頼朝と北条政子の長子)が幽閉された場所でもあります。
父・頼朝亡き後、18歳という若さも手伝ってか、リーダーシップを発揮しようとするや
周囲から猛反発を食らい、側室であった若狭局の一族である比企氏とともに
起死回生の政変(比企の乱)に臨むも、北条一族に敵わず、頼家は修禅寺に幽閉…という顛末。
23歳で亡くなる頼家の後も弟・実朝が武家の棟梁として源氏の流れを保たせるものの、
頼家の政変は北条氏の力をいやがうえにも増すことになったでしょうし、
実質的に源氏の潰えを見守った寺と言えるのかもしれませんですね。
(文中で、鎌倉幕府執権の北条氏と早雲以降の後北条氏がちと分かりにくいかも。ご容赦を)