さてはて今度は室町時代のお話ということに。


源頼朝 が開いた鎌倉幕府が終焉を迎えた後、
南北朝のいざこざを経て足利将軍家による室町の世となるわけですが、
授業の日本史をおざなりにしか聴いてなかった者からすると、
ここいら辺りは極めて掴みどころのない時代と言えましょうか。


武家政治の中心が鎌倉から室町を移って以降、
東国の状況はどうなってんの…というあたり、全くもって分かりにくいような。


幕府自体が京室町へと行ってしまった後の鎌倉には

東国の押さえとして鎌倉公方が置かれます。


ですが、幕府と対立した鎌倉公方・足利成氏が1455年の享徳の乱で鎌倉を追われた後、
古河(現茨城県)に移って古河公方を称すると、幕府側では正式な鎌倉公方として

足利政知を送りこむのですね。


ところが、時の関東は管領職を務める上杉氏の分家どうしの内紛に周囲の豪族が寄り集まって
混乱を極めており(だからこそ、分かりにくいんですが)、政知は鎌倉に入ることができない。
やむなく手前の伊豆・堀越の地に留まって御所を構えたことから、
堀越公方と呼ばれることになったという。


…ということで、訪ねてみたのは「伝堀越御所跡」であります。
「伝」とありますように、「たぶんここだろうなぁ」という感じでしょうか。


伝堀越御所跡


それにしても、何にもないところでありますね。
こうした解説板でも立っておらなければ探しあぐねてしまうかもしれません。


伝堀越御所跡 解説板


まあ、史跡を巡ってみると

お目当ての歴史を全く想像させないような開発がなされてしまっていたり、
ちっぽけ碑がひとつあるだけだったりすることはままあることですので、
野っぱらとしてあるというだけでも、まだ偲ぶよすがになろうかというところです。


ただ解説をよおく読んでみれば、いろいろな遺構が見つかっている事実はあるようで、
国指定史跡にはなっており、野っぱらにしてあるのもやがて史跡公園とするために、
周辺地の買い上げを進めていると書かれていました。
(さりながら、平成8年の記載のままなのは進んでいない証しでしょうか)


ちなみに、堀越公方は足利政知亡き後、子の茶々丸に受け継がれますけれど、
これを伊勢新九郎(後の北条早雲)が攻め滅ぼして、伊豆を手中に収め、
そののち関東を窺う足がかりとした…ということでありまして、
そういう話を耳にすると野っぱらであることがなおのこと無情を感じさせるところでもあろうかと。


ところで、「伝堀越御所跡」を訪ねてみて「あ、こんな近かったのか」と思ったのが、
「北条政子産湯之井戸」というもの。


尼将軍北條政子産湯之井戸 案内碑


いくらなんでも産湯の井戸までは見に行くまでもないと思っていたですが、
振り返ればそこに案内碑があるとなれば、ついでですから見てきました。


北条政子産湯の井戸 外観

北条政子産湯の井戸 内部

確かに今でも水を湛えた井戸であるようす。
今一度、御所跡の解説板に戻ってみると、
堀越御所自体が北条氏(早雲に始まる後北条でない)の屋敷跡に建てられたとあって、
そりゃ屋敷のそばに産湯の井戸があるのはなるほどなぁと思いましたですよ。


とまれ、あれこれ見ては歴史の変転に思いを致す…そんな感じでありますね。