ハワイ王国公使別邸 の目と鼻の先ながら、全く毛色の異なるもうひとつの史跡がありました。
「伊香保御関所」であります。


伊香保御関所


箱根や白河などの関所は有名ですけれど、伊香保にも関所があったのか…と思うわけですが、
どうやら伊香保は、高崎から渋川を抜けて北へ越後に通ずる三国往還(三国街道)の

裏街道筋に当たっていたとか。
渋川から先、吾妻川が増水して通れないような場合の迂回路であったようなのですね。


寛永8年(1631年)に幕府の命令で口留番所(要するに関所のようです)が置かれたのが

始まりと言いますから、1603年に開かれた江戸幕府としても、

こうした関所はいち早く設置しておく必要があったのでありましょう。


このような要所固めをしておいて、三代将軍家光が「武家諸法度」を改定した1635年に

参勤交代は義務化、大名の正室を江戸屋敷に住まわせる制度でもあったことから、

関所にあっては「入り鉄砲に出女」に注意を払ったわけですね。


丁度、伊香保関所の解説板には
正徳元年(1711年)に「関所の掟」なる奉行からの通達が書かれてありましたので、
長くなりますが、引いておこうかと。

一、関所を出入る輩、笠、頭巾をとらせて通すべき事
一、乗物にて出入る輩、戸をひらかせて通すべき事
一、関より外に出る女は、つぶさに証文に引き合わせ通すべき事
  付 乗物にて出る女は、番所の女を指出し相改むべき事
一、手負死人並不審成もの、証文なくして通すべからざる事
一、堂上の人々、諸大名の往来かねてより其聞えあるにおいては沙汰に及ばず、
  もし不審あるにおいては誰人によらず改むべき事
右之条々厳密に、可相守者也仍執達如件

最後の部分だけ読み下しておきますと

「あいまもるべきものなりよってしったつくだんのごとし」となりますが、
やっぱり「出女」には注意喚起が促されてますですね。


諸大名の往来でも不審があれば改めよとは厳しいお達しであったようす。

さりながら配置されていた関所番役人(大屋二名、下番二名)ですけれど、
関所の中の展示で見る限り、どうも伊香保の湯宿の主が輪番で行っていたような。


もちろん小暮とか岸権とか森秋とか歴史ある大きな宿の者ばかりのようですが、
番所に詰めているのが湯宿の主では、いささか迫力と緊張感に欠けるような気がしないでもない。
大名の行列に疑義を指し挟むなどとてもとても…という印象ではありますですね。


ところで徳冨蘆花記念文学館を訪れた後に
「ほどなく、またしても『こういうつながりもあるか…』とすぐに思うのですが、それは後のお話」
てなことを先に書きました。


それがこの関所のことでして、ここの展示で気がついたのですが、
伊香保町の前身、伊香保村自体は幕府領(いわゆる天領)であるものの、

安中藩とは隣接の地であるなと。


安中藩となれば、もうお気付きでしょうけれど、新島襄の出身藩ではありませんか。
ということで、またしても何やら「八重の桜」とつながってしまった…とまあ、そういうお話でありました。