先に「伊香保といえば竹久夢二
…」てなことを言いましたけれど、
もう一人、忘れてはいけない文化人として徳冨蘆花がおりますですね。
これは、蘆花の代表作である小説「不如帰」が伊香保温泉の老舗旅館のひとつ、
千明仁泉亭の場面から始まることにもよりましょう。
今ではわざわざ「不如帰」を手に取る方も少ないのではと思うところですが、
当時(1898~99年に新聞連載)としては小説の売れ行きも、
また映画になってさらに人気沸騰といったことがあったのでしょう、
あやかるべくして伊香保ロープウェイ
の山麓側の乗降場には「不如帰駅」と命名されてたりしますから。
そうは言っても蘆花自身が伊香保を気に入っていたからこそ、小説に登場させたのでありましょうし、
最晩年、病いで身動きもならずという時に「伊香保に行きたい」と駄々をこね、
医者の説得をねじ伏せて伊香保に辿りつけば、いささかの回復を得たのだそうな。
こうしたことも気持ちの上のことですが、やはりプラシーボ効果と繋がるところでありましょう。
で、なまじいくらかの元気が生じたが故に、今度は「榛名山に登りたい」と駄々をこねる蘆花先生。
自分一人では一歩も歩めぬ状態であることからすれば無茶なことを言ってるわけですが、
結局のところ駄々のこね勝ちで担いで登らせたようでありますよ。
そんな小康を得たとはいえ、やはり病いには勝てず、蘆花先生は伊香保に客死となるわけですが、
最後の最後に我がまま邦題をし尽くして(温泉にも籐椅子に座ったままつけてもらったとか)、
さぞ本望ではなかったかと思ったりしますですね。
とまあ、そんな徳冨蘆花の生涯と作品を振り返る展示が見られると、
「徳冨蘆花記念文学館」に出かけてみたわけであります。
そうはいっても、徳冨蘆花に関する予備知識はかなり少ないものでありまして、
代表作「不如帰」を始めとして作品は全く読んだことがありません。
せいぜい、しばらく前にETVでトルストイに関する番組が放送されたおりに
蘆花がわざわざロシアまで会いに行ったというエピソードが紹介されていたことから
少しばかり興味を持ったものの、それきりになっていたというのが実態。
むしろ東京にいて蘆花の何かしらに触れるには
世田谷区にある蘆花恒春園にいつでも出向けるというのに行ったこともないままですが、
この蘆花恒春園となっている当たり一帯が蘆花の所有する農地であったようで、
この土地を得て農業に取り組むことがそもそもトルストイとの出会いから生じたことであったそうな。
世田谷で広大な農地といっても今ではあまりピンときませんが、
蘆花がこの土地に移り住んだ明治40年(1907年)頃は、
それこそたぬきやきつねが遊んでるような土地だったのでありましょうなあ。
なにしろその10年ほど前(1898年)に書かれた国木田独歩の「武蔵野」の中では
渋谷でさえも東京のはずれ、すなわち武蔵野に位置づけられそうなくらいだったわけですから。
と、また余談に走り勝ちになってますけれど、記念館で生涯を辿ってみたところ、
蘆花という人はかなりインフェリオリティ・コンプレックスを持っていたような。
そして、それがまた爆発力となって大きな自尊心を抱き、頑固で癇癪持ち。
なかなかやっかいなお人柄だったようで。
家族の中では、できのいい兄(徳冨蘇峰)が一身に嘱望を担うこととなって、
蘆花の方はどうでもいいみたいな育ち方をしたのが大きく関わっているのでしょうけれど。
そんな頑固で癇癪持ちで…の一端は、
先に紹介しました最晩年の伊香保榛名行きの駄々こねにも現れているものと思いますが、
よくしたものでこうした御仁にしっかりと影で支える伴侶が見つかるのですなあ。
実は青年期の蘆花は同志社に学んで、そこでとある恋愛沙汰から退学することになる。
そのときの相手は山本久栄というご婦人なのですが、ここで「ん?」と思い、
このあたりの解説をよく読んでみますと、「ほぉ~、そうかぁ~」と。
同志社と来て、山本ときたものですから、それほど世の中狭いものかと思ったら、狭かった。
というのも、山本久栄という人は山本覚馬の娘だったのですね。
今年の大河ドラマをご覧の方にはすぐにお分かりとおもいますが、
山本覚馬は、同志社創立者である新島襄の妻・八重の兄でありまして、
山本久栄は八重の姪ということになりますね。
戊辰戦争で会津は大変なことになってしまってたでしょうから
(と、このあたりはこの後の大河ドラマで描かれるでしょうけれど)結局のところ、
覚馬・八重兄妹ともども山本家はこぞって?同志社の草創期に関わっていたようですから、
蘆花が思いを寄せてしまったのは、同志社創業者グループのお姫さま(とは言い過ぎか…)、
まあ簡単には認められんだろうなあと思うところです。
と、やっぱり余談めいて、徳冨蘆花の話なのか、「八重の桜」の話なのか
分からんことになってしまってますが、とにかく世間は狭いような気がしたものでありますよ。
で、この記念館を訪ねてほどなく、またしても「こういうつながりもあるか…」とすぐに思うのですが、
それは後のお話。
文学館を見て回る最後には、建物の外に移築された古い日本家屋を訪ねます。
何でも蘆花のお気に入りで定宿にしていた千明仁泉亭の離れをもってきたのだそうですよ。
8畳の和室が四間、それに専用の湯殿や女中部屋まで配されていました。
ここの湯殿には当然に伊香保の湯が引かれていたのでしょう。
なんともぜいたくなものです。
晩年の伊香保来訪で、自分では入れないので籐椅子に座ったまま湯ぶねに浸してもらったと
先に書きましたけれど、もしかしてそのとき使ったもの?と思しき籐椅子も置いてありましたですよ。
と、いくらか蘆花の話に戻ったところで、文学館を後にして次の目的地に向かうといたしましょうかね。