旧伊香保御用邸
のところで見たユキノシタに続けて、
ちと花の話というふうに申し上げましたが、見かけたのはこの花でありまして。
苔の海からにょきにょきっと顔を覗かせた二本の潜望鏡…てな言い方をしてしまいますと、
風情も何もあったものではありませんが、緑のじゅうたんに白さが際立っていたのですね。
そして、何だか「生もの」感が強い。
普通の草花に比べて、なんかこう原初的なといいますか、そんなものを感じたのでありますよ。
おそらくは苔の花なんでしょうねえ。
あんまり苔に花が咲くという認識が無かったものですから、
なおのこと「なんだこりゃ?」てな気がして、さらに接写を試みようとしたですが、
やはりこの花にもたっぷりと蜜があるのか、熊蜂としばし接近遭遇するに及んで、
一枚きりの写真であきらめましたが…。
(後補:上の花は「ギョリンソウ」と、コメントでご教示いただきました。苔の花ではないようです)
と、こうした苔の絨毯を前庭に持ち、後ろには鬱蒼とした木立ち。
「大正ロマンの森」と称しているようですが、
あたり一帯が敷地内のようですね。
ということで訪れているのは、竹久夢二伊香保記念館でありました。
何とはなし、竹久夢二と伊香保とに繋がりがあることは知っておりましたけれど、
どういうつながりがあるのかは、ここへ来て初めて知ることに。
1919年(大正8年)、夢二は36歳のときに初めて伊香保を訪れ、
よほど気に入ったのでしょうか、後には伊香保からほど近い榛名山に
美術研究所を作ろうとするのですね。
榛名湖畔には復元されたアトリエもあります。
ただ夢二が伊香保・榛名の地を惹かれたことには理由があるのだとか。
1920年に夭逝してしまう最愛の女性・彦乃とは、ひと目を忍ぶ恋文の中で彦乃を「山」、
自身を「河」というコードネーム(?)を使って呼びかけ合っていたそうですが、
彦乃を亡くしてのち、榛名の「山」に彦乃の姿を見ていたようでありますよ。
例えば上毛三山といわれる妙義山、赤城山と比べてみると、
鋭い鋸状の岩峰が並び立つ妙義や広く雄大な裾野を引いてそびえる赤城とは異なって、
妙義山の穏やかな山容は女性を偲ばせるものかもしれないですね。
ところで展示の方でありますけれど、いかにも夢二らしい女性画はもちろんのこと、
互いを「山」「河」と呼び合った彦乃との手紙などもありました。
そうした中で、改めて竹久夢二に「ほお~、やるのぉ!」と思いましたのは、
今でいうグラフィック・デザイナー的は範疇の仕事でありましょうか。
なかなかにモダンで洒落たデザインが並んでおりまして、
そのモダンさはレトロとばかりもいえず今でもそのままモダンとして使えそうなものなども。
竹久夢二といえばひと目で分かるような女性の像とばかり思ってましたが、どうしてどうして。
榛名に作ろうとしたのが美術「研究所」だったあたり、
デザイン系の仕事まで十分に視野に入っていたのでしょう。
と、またここで別の観点から目を止めたものがありました。
それは竹久夢二の署名もある宿帳なのですね。
ここに記された夢二の署名というのが、ローマ字の筆記体。
そしてそばには確か大和民族と書かれていたような。
それもそのはず、同じページに書かれた署名は英語であるようで、
たぶんお雇い外国人諸氏とかその関係者とかの宿泊が多かったのでしょう。
そばには「Britsh」とか「German」とか、国籍が書かれていて、
夢二はここに大和民族と書いたというわけです。
先に「伊香保にも外国人の保養地としての名残 」てなことを言いましたのは、
こうしたことからでもありました。
よくよく目配りしてみると、面白い資料にあたるものでありますね。