読売日本交響楽団の演奏会を聴いてきたのですけれど、

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」というロシア押しの内容。


読売日響演奏会@東京芸術劇場(2013.5.12)


客演で迎えた指揮者がユーリ・テミルカーノフで、

かつてはロシアの指揮者としては二番手的なところではなかったかと思っていたのですが、

世代交代は常にあるもので、すっかり重鎮の域に達しておられるようで。


とまあ、ロシアから指揮者を迎えるからにはやはりロシアの演目でぜひひとつ!となるのか、

件のプログラミングと相成ったものかと。


それにしても、ラフマニノフの始まり早々に「こりゃ、いつもの読響の音と違うんでないの?」てなことを。

昨年秋に聴いたゲルギエフ指揮のマリインスキー歌劇場管弦楽団の演奏会との近さと言いましょうか。


もしゲルギエフとマリインスキーの音を「ロシア的」だとするなば、

この日の読響は「ロシア的」な音だったと言うこともできようかと思うわけです。


ですが、「ロシア的な音」ってどういうこと?ですよね。

そこで今さらながら思い当たるのが、「プラシーボ効果」でありましょうか。


元々、音楽にはお国柄というのが反映しやすいものとも思われないではない。

土地土地の民謡なんかのメロディを直接使うケースもあれば、

そのエッセンスをもってメロディやリズムを作りだす場合も多々ありますし。

そうでなくても、音楽は作曲者の生まれ、育ちに関わるメンタリティとつながりが深いでしょうし。


ということで、例えばラフマニノフやチャイコフスキーにもその曲には

「ロシア的なるもの」が封じこめられていたとしても不思議はない。


ではそうしたロシア的なるものを演奏するときには、

ロシアの演奏家であれば(例えばロシアの指揮者でロシアのオケで)作曲者とメンタリティを共有できて、

本来の含みの表出が可能となる…と言われたとすれば、それはそうかもと思わなくもない。


ですが、ロシアの指揮者を迎えた日本のオケの場合だったらどうなるのか。

曲そのものだけに頼るわけではない響きの点でもロシアの指揮者が思い描くものを

日本のオケから引き出そうとする結果、ロシア的なものになる(近付く)てなことなのかも。


ただ、ここまでくると「そうに違いない」という思い込みが

聴き手の側で勝手に作用しているがないとは言えないような。

ということで、プラシーボ効果なのでは…?とも思ったりするわけです。


昔からクラシック音楽の世界ではベートーヴェン、ブラームスをフランスのオケで聴くよりは

ドイツのオケで聴いた方が「う~ん、深いねえ」となったりするところがあるわけですけれど、

こうした語りが成り立つあたり、とてもとてもマニアの世界、おタクの世界を形成しやすい気がします。


例えとして、FM放送でクラシック音楽のリクエストを受け付けたりすることがありますが、

リクエストする方の10人中8人くらいは「○○という曲をリクエストします。この曲は…」と

リクエスト曲の後に自分と曲の関わりのエピソードならともかく、この曲に関する歴史的背景や

作曲時の逸話などを必ず「語ってくれてしまう(頼んでもないのに)」ことなんかも、

明らかにマニアというかおタクというか、そうした存在を浮き彫りにするなぁとつねづね。


こうした世界にかぶってくるのが実はオーディオの世界でありまして、

ここでも「プラシーボ効果」の話は実にあれこれ喧しく話題になるものなのですよね。

長くなってきましたので、このあたりはまた改めて触れることにしたいと思うところであります。


で、先の演奏会のことですが、珍しく今回はアンコールがありましたですね。

ラフマニノフのコンチェルトを弾いた河村尚子さんがシューベルトの「楽興の時」をおまけに。

これも良かったのですが、オケとしても最後に(ロシア尽くしの後に何故か)エルガーの

エニグマ変奏曲から「ニムロッド」を演奏してくれました。


ロシアの指揮者が日本のオケを振ってイギリスの作曲家の曲を演奏したこのアンコール。

実を言うと個人的には、これがいちばん響いてきたですね。

プラシーボ効果を期待できない組み合わせにも関わらず…。