言葉を使うことは難しい。
自分が認知した物事や事象を言語化していくことは、理解を深める、理解を定着させるには必要な行為と思う。しいては、他者に対して理解を求めようとすると、受け取る側の思考空間に入って解釈されるわけで、その理解が一致しているとは言えない。
よって、他者に対して言葉を尽くそうとしても、繰り返し、表現を変えながら、そのギャップを埋める、乃至、こちらの思考空間に導くことになってします。
やはり、言語とは、一つの理解した空間を輪切りにして、その断面を示すことにほかならず、必ずしも全体を表現しているとは言いにくい。
Gerd AltmannによるPixabayからの画像
まるで、野菜を切って、その断面を示し、、トマトだと!いうようなもの。。
その輪切りの形は、人によってはピーマンに見えるかもしれないし、カボチャに見えるかもしれない。トマトというものを理解しているもの同士であれば、いとも簡単、
あ、トマト!
といえる。
でもトマトをしらない、あるいは、その存在を忘れている人にとって、なんだろうと思うわけで、回答として、知っているものに当てはめようとするものである。
包丁も使い方次第といいますが、言葉も同様。
立て切りにしたり、輪切りにしても、、3Dスキャンのように幾重にもしたとこで、ようやく全体像が見えてくる。
それでも、所詮、輪切りであることには違いない。
それを、他者が完全に理解したといえるのものなのか。。
そこは相互に感じ取るしかないのかもしれない。
ただ、言語がないと、共通理解、共通認識を構成できないとなると、、
もともと、不便な世界ともいえる。
それこそ、相互理解は、永遠の不毛な努力かもしれません。
逆に、相互理解、共通認識を構成するには、不断の努力が必要なのでしょう。
絶えず、相手を理解しよう、自分を正確に伝えようとする努力が人類に課せられた課題なんでしょう。
それを怠る、、自分の意識を強引に他者に強いることは、相互にストレスを与えます。なかにはあえて不協和を生み出そうとする者もいるでしょう。
時間は刻刻を動き、、その時々にて、自分自身も、他者も変化しています。
変化するもの同士のなかで共通認識に立つことは、言葉を尽くすこと。
お互いに共通認識・共通理解をしていこうという意識があることが前提となるかと思う次第。。。。
最近思った次第。。。。
強引なひとが多くなった。。