病気が判明して三か月後に夫はこの世から消えた
初日から余命宣告されていて、「死」は常に私の頭にあった。おそらく夫も口にはださなかったけれどそうだったろう
でも私は、現代医学では治らなくたって、絶対に方法があるはず、治してみせる、と必死になっていた
「がん」という病気に対してそれまでの私は全く無知だった。
いまふり返ると、あの短い時間によくもあれだけの本を読み、遠くまで勉強会にでかけ、手当て方法を調べ尽くしたものだと思う。
ちなみに、そのときに買い込んだ資料やグッズは、夫の死後すべて捨てた。
主治医からは会うたびに否定的な見通しをきかされた。しまいにはそれがストレスになりすぎて、情けないけど息子に代わりに話をきいてもらうようになった。
主治医は、おそらく根は良い人だったのだと思う。でも、患者や家族に対する態度には及第点はつけられない。
どこかで予感していた死が訪れ、葬儀が終わり、いろいろな手続きや挨拶等が終わり、今はその意味では「落ち着いて」いる。
でも、この先、自分が何のために生きればいいのか、まったくわからない。
わからない、というより、生きる意味が無い。
夫の死後、病気関係の本を捨てたかわりに、死後の世界のことを知りたくてたくさんの本を読んだ。
死んだ人が無になるとはもともと思っていなかったけれど、それは漠然としたものだったから、
実際、夫はいまどこでどんな状態になっていて、何をしているのか知りたかった。
この種のことは玉石混淆だけれど、それでもいくつか納得できる本に出逢えたし、サイトもみつけた。
それらが助けになったのは事実。
最初のころ感じていたような、夫が可哀想だという気持ちはほぼ消えた。病は苦しかったにちがいないけれど、いまはもう、全てから解放された境地にいて元気満々、幸せいっぱいでいると思っている。夫のことはもう心配していない。
私には自分が死んだときに夫が迎えに来る図もはっきり描ける。
夫が着ている服も、表情も、しぐさも、台詞も。
でもそれはまだ先のこと。
問題は、この世でまだ生きている私。
その日がいつくるかわからないのだから今を大切に、なんて月並みな台詞は陳腐にしか響かない。
そんな投げやりな気持ちになる。