7/6(日)
娘に誘われて映画『国宝』を見てきました。
誘われたとは言え、支払いはワタクシです。(笑)
さてチケットを予約するにあたり売り出し日の0時にアクセスしましたが、まずはサイトに入れない…
順番がきてサイトに入れたあとも、アクセスが集中しているのか「次へ」がなかなか進めない。そのうちにタイムアウト…これの繰り返しで買えなかったので、近所の映画館を諦めてなじみの日比谷にアクセス。やっと040に二席、端っこのほうを確保できました。
正直、私のアマノジャク的性向から言って、流行りのものには近づきたくないという気持ちが強い。おそらく私一人だったら、そんなに流行っているならやめとこうかなとなるところでしたが、娘の誘いだったので、キッチリ最後までがんばった次第。
ロビーで飲み物を買うにも大行列、10分ほど並びましたが始まりに間に合わないと思ったので、地下のセブンに走りました。
映画で(失礼ながら邦画で、しかもこの題材で)この活況はちょっとないことですよね。いったいどんな作品なのか、わくわくして着席しました。
まずはざっくり
大作なので、感想はいろいろあるのですが一番は吉沢亮すごい!ということだったでしょうか。当代きっての人気俳優だと認識はしているのですが、(テレビ、映画などの映像をほとんど見ない為)出演作品を見たことありません。飛行機の中でわずかに『キングダム』を見たことがあるくらいで、ほぼ初見。時々番宣でしゃべっているのをチラ見した感じでは、あまり喜怒哀楽を現さないすかした感じ?の青年。ちょっと何か奥に秘めたものがありそうな気がします。
『国宝』でほぼはじめてじっくり拝見したところ、パーツが均等で化粧した顔がとても美しくて、ぴったりの役でした。
一方の横浜流星、私にはずっと判別のつかない顔で、CMなどで(この人だれ?)と思うことが多いナゾの俳優。今回化粧した顔をアップで見て思ったのは、吉沢亮と異なり顔のパーツがかなり不均衡。これが逆に表情を豊かにしてるんだろうなぁ、なので見るたびに違う表情なので、同じ人に見えないのだろうとなんとなく自分の中では腑に落ちました。堕ちていく御曹司役が切なかったですね。春江(高畑充希)が寄り添ってくれたのは救いでしたが、彼女は喜久雄の恋人ではなかったのか?とちょっと納得できない感もありました。何かエピソードがはしょられているのかも?
見た人の感想とか目に付くものを読んでいたつもりだったのに、冒頭しばらくしたところでヤクザの抗争シーンになったことに、まずは驚かされました。(あれ?こんな話だったの?)…と。大作のせいで刺さる部分がそれぞれに違ったのか、みなさまの感想が多岐に渡り、どなたのものを読んだかによってかなり偏っていたのかなーと思われます。まさに百聞は一見にしかずでした。
それでそのヤクザの組長が永瀬正敏で二度ビックリ!(笑)
久しぶりに見ましたが、すごくストイックな感じのシブい二枚目になってました。
冒頭のシーンは字幕によれば1964年(昭和34年)。
そんなに大昔でも戦後まもなくでもないですよ?
こんなことが実際にあり得る時代だったか?とまたしてもショックを受けましたが、つかみは衝撃的で物語にグングン引き込まれていきました。
物語の核心は…
話の核心は喜久雄(吉沢亮)が、愛人と幼い娘と一緒に縁日に行ったとき、小さな神社にお参りして「悪魔はんに歌舞伎がうまくなるようにお願いした」というところですかね〜?「歌舞伎がうまくなれば、他は何も要らない」と。芸のためにすべてを犠牲にするという意味でしょうか?犠牲にするというほどの気持ちもないのかもしれません。ただ純粋に望み。少年の頃から芸能に興味があったみたいですから、もう本能のようなものかもしれませんね。こういう人の周りは大変だろうな…と、凡人の私はつい考えてしまいます。
世襲が常套の世界では、跡継ぎ問題は難しいでしょうね。才能があってもなくても悩ましい。
ただ「普通の人」の私は、才能がなかった場合の悩みに共振しがちです。一族が同じ世界に生きていて、自分はそれに興味が持てない、または絶望的に才能がないと知った時に逃げ道があるといいと思います。
芸事に限らず、商売や職業、スポーツ界、今では政界もそうですかね?自分と親とは別の人間(人格)であることを認められ、同じ道を進まなくても責められない選択肢があるべきですよね。親の方はなかなかそうは思えないと思いますが、何が子どもにとって幸せなのかを本人の立場に立って考えることこそ、親の愛なのではないかしら。
反対に、才能や熱意があるのなら世襲の世界に飛び込める開かれた環境も必要なのかもしれません。相撲の一代親方ではありませんが、組織(家?)を新設するなどの柔軟な対応がこれからのご時世は更に求められるのかと。
歌舞伎と宝塚
さぁそして宝塚ファンとして言及したいのは、歌舞伎とは逆に女性だけの劇団なのでよく比較される宝塚、まずは世襲でないことが大きく違う点の一つですね。
普通の家庭に生まれても、自分の才能、熱意、ビジュアルなどで駆け上っていける本来実力の世界です。お金の力はないとは言えませんけどね(笑)でもそれはたぶんどの世界でも同じ。
創設の経緯や時代的な背景から言って、女性に生涯の仕事として芸事を極めることは、求められても認められてもいなかった。おそらくは花嫁学校の亜流的な要素もあったでしょう。そのためか、ある程度の年数経ったら辞めることが、不文律あるいは無言の圧力としてありそうですし、実際亡くなるまで歌劇団団員であったのは、創設期から関わった伝説の人で、理事まで務めたいわば名誉職のかたです。
あまり適切な表現ではないかもしれませんが、宝塚のパフォーマンスはいわゆる〝容色の衰え〟に勝てるようなものではない。歳を重ねて在籍していても、出演の機会は限られてきます。
①ご自身に辞める意志がない、②劇団側にも広告塔的な利益などの意味合いがある、③後輩に伝えるべき突出したスキルがある、④そしてご本人に相当な資産がある、などの条件が満たされなければ、この程度の露出で生涯にわたり悠々暮らせるほど優遇されているとも思えません。
年季と経験で補えるものも無くはないですが、おそらく歌舞伎とは観客の求めるものも違う。スキルや経験ばかりではなく、(使い捨てとは別次元の)消えゆくゆえに儚い若さの煌めきを見たい。演者の思惑とも一致するところかと思われます。
人間国宝として芸事に生きた、田中泯演じる万菊の晩年、一人きりで簡易宿泊所のようなところで寝ついている様子が逆説的で胸に迫りました。「ここには綺麗なものが何もないでしょう?それでやっと赦された気がする」という問わず語りに、美しいものを追い続けてきた人生も本当は辛かったのかしら?とふっと思わないでもありませんでした。
国宝となることが何を得ることなのか、失うことなのか、喜久雄は求めたものを得られたのか?
ある「景色」を切望して、それを見られたかのような描写はありましたが、ほんとのところは棺桶に入るまで答えは出ないのかも。そもそも天才の考えることは凡人にはわかりませんが…
人間国宝になった取材を受けている中で、ぼうっと外を眺めている喜久雄に目線を促すカメラマンが、非嫡出子のあやのだったことにも驚きましたが、配役が(え?瀧内公美?!→into the woodsである意味印象的だった女優さん)というのにまた驚いて…最初から最後まで驚かされました。
余韻
まだ時々に溢れくる思いもあって、皆さんが口々に言ってらっしゃるように、これが『余韻』かな…と思います。適材適所の演者を得て、記憶に残る作品となったことはまちがいないでしょう。
出演者にとっても、若くして代表作となったであろう大きな作品に飲まれることなく、これからも様々な顔を見せてくれることでしょう。まぁ吉沢亮には『キングダム』もありますし、もう押しも押されぬ大スター、よけいな老婆心でしたね。