4/6(火)、4/7(水)
一階最後方のセンターブロックにて。
観劇中も、観終わってからも、夢の中のような気がしてきた千秋楽も近いこの頃。
たしかに自分もいる、同じこの劇場の空間で演じられているのに、座席が2階天井近くだったり、一階の後方だったりして遠くに見ているせいか?声が肉声でなくマイク(機械音)で耳に届くせいか?どうも自分の目の前で演じられている気がしない。明らかに映像を見ているのとは違うのはわかる。視野も広角だし、奥行きも高低も立体的に見えている。なのに彼女たちをくっきり見せているライトの中で、切り取ってそこに貼ったかのような非現実的な感じがするのはなぜなんだろう?もっと間近で見れば現実味があるのか。あるいは、コロナ以前のように劇場の外ですれ違ったりすれば…? 生きて血のかよった人間として認識するのかもしれない。ただ、今、舞台の上に見る彼女たちはこの世ならぬもののような異彩を放っている。それが私に、目の前のことを夢かと思わせているのかもしれない。あるいはあまりに淀みなく芝居が進むので、引き込まれ過ぎて現実に目の前で演じられているように思えないのかもしれない。
そうして光の中に夢をみているかのごとくに舞台を見つめながら、つまらぬことを考えている自分に気づく時がある。ルードヴィヒの父親がブロイニング家に呼ばれてやってきて、ルイをむりやり連れ帰ろうとした時に差し出されたお金をチラッと覗き込んで、「でしたら文句はありませんや」とニヤリとする時、(いったいどのくらいもらえば息子を一時的にでも手離してもいいと思うのだろう?)とか。そんな時にふっと我にかえるのだ。(あ、舞台を観てる)と。アル中の父親が稼ぎのタネとしている息子がいなくてもちょっと困らないだけの額。子ども一人の給金にさすがに50万100万はないだろうから、10万か、20万か…
芝居の中にふっといつもと違うセリフが入ったときも目が覚める。ルードヴィヒの家の家政婦が、散らかっている部屋の掃除をしながらこぼす愚痴。以前はただムッとしてゴミを片付けていただけのように思うが、3月後半から?愚痴がアドリブでセリフのひとつになってきている。芝居の雰囲気を壊さずに毎回別のことをしゃべるのは大変に違いない。しかも、夫に感じる面倒くささのような皮肉のきいたセリフで、同じ女性としてクスッと同感の笑いさえ誘うのだ。今日は「こんな人と結婚したら大変だよ」、その前の時は「私はあなたのお母さんじゃない」のようなことをグチっていた。杏野さん最高です
モーツァルト、テレマン、ヘンデルの音楽家トリオも、現実に存在していない影だからか?かなり自由に動いていて、我にかえらされる瞬間がある。肖像画の額縁の底辺部分に頬杖をついて、ちょこんと顔だけ出しているみちるちゃんモーツァルトかわいすぎるとか、持っている羽でくすぐられて、怒るべきか、知らん顔をするべきか困っている縣がツボとか(笑)
そして組子勢揃いの神々しいばかりのクライマックスは、もしかして既に天国なのではないか?
智天使ケルヴと三人の天使がいて、お産で亡くなったはずのロールヘン、流刑地で亡くなったナポレオンも連なり、ほとんどが白っぽい衣装でこの上なく優しく微笑んでいるここは、、、、?
プロローグで提示されていた天国の門と対になっているのでは? 天国の門をくぐる人達は、貴族も農夫も「魂」の象徴として真っ白な衣装を身につけていたし、このクライマックスでも同様。
そうか、、、こうして昇華していくのか。だから夢のように感じるのか。と妙に納得するフィナーレが、夢をみているうちに今日もあっという間にやってきていた。
ついに千秋楽まであと4日、6回。日中夢を見ているからか夜はあまり熟睡できない。
5日の後には返ってくる日常。長い夢をみていたように覚めるのか?今はまだ…