幸いにも今月初めに宙組「フライングサパ」、昨日再開の星組「眩耀の谷」を観て、改めてしみじみ思ったことは、映像と生の舞台は違う、ということでした。
何を今さら?

元々テレビなどの映像をふだん見ることがない私ですが、(映画だけはファンタジーやSFはわりに見る方です)この度のコロナによるあまりに長い休演で、背に腹は変えられないというところで、配信を見たりすることも増えてきました。
3月に雪組の「ワンス」千秋楽の配信を観て、一度も劇場で観ることができなかったので、そのときは配信があって(よかった~)と思いましたが、見ている最中から(なにか違う)という思いが膨れ上がってきました。なぜならたぶん劇場で観たら、もっと心が震えただろうということが容易に想像できたから。同じものを見ているはずなのに何が違うんだろう?映像でしか観たことがなければ、「こんなものか」で普通に納得しただろうけど、そしてたしかにそのときは本当にありがたくて、多額の損失を出している劇団がこうしてまた損を出すことをわかっていながら無料で配信してくれたことが、涙が出るほどありがたかったのもほんとの気持ち。みんなが我慢しているご時世だし、わがまま?を言うのは間違っていると思って黙っていましたが、あれから半年。やはり今言わずにはいられない。
生の舞台と映像は「似て非なるもの」と。

よく演者が「舞台にきて何よりもお客様のあたたかい拍手がたいへんありがたく、お客様あっての舞台」的なことを言いますが、まぁいわば紋切り型のリップサービスで、腹の中ではほんとには思ってないかもなぁと勘ぐったりしてました。翻って「客」という立場からは、自分達はただ観にきてここに座っているだけだし、舞台になにか影響を与えることなどないだろうと思っていたのもたしかです。でも公演が打てないという状況に本当になってみて、舞台というのは真実、演じる側と客とで作るものというのを思い知ったわけで。
もしかしたらルーチンでただ挨拶していた演者のかたがいたとしたら、この度のことで「そうではない」ことがハッキリわかったのではないかと。木戸銭を払ってくれる存在というだけでない、一緒になにかを作り上げる、その相手こそが観客だと。

語彙力が足りなくて情けないですが、たとえば空間に響く音楽やセリフ、柔らかく、そして射すように舞台に落ちる光、衣装のボリューム感や質感、そして衣ずれの音、セットの精巧さや大きさ、ステージ全体を使って繰り広げられるダンスや演技の、精緻さやダイナミックさ、演者の額に光る、首筋を流れる汗、すれちがいざまに香る香料や、あるいは体臭。切り取られた画面の中にない、端っこの(かけだしの)役者の動き。観客が息をのむ、手に汗を握る緊迫感、客席がふっとほころぶ幸福感、そしてその全てを覆う空気……
こういう、特に目に見えないものが映像ではどうしても伝えきれない。

ただ、安易に舞台が打てない今、苦肉の策で配信に救いを求めるエンタメ業界の気持ちもよくわかる。私たちもいずれまた生の舞台を観るために、彼らに倒れてもらったら困る。だから次善の策としての映像の配信を購入することは、彼らを応援することに繋がると思っています。でも「似て非なるもの」だということはいつも頭の中に置いておきたい。そして自分も「観客」として舞台を完成させる要素の一つであるという誇りを持っていたい。

賛否はあるでしょうが、客席に数の制限のある今、チケットの価格を一時的に上げることも考えてみてもいいのでは、とも。